第3章 夢と突然の別れ

(096)   Area 5 Awake 『夢』

 --『夢』-- #海


 八月。


 夏の空は色濃く、青く、どこまでも高い。


 気が付けば、僕が永薪食堂にきて四ヶ月を過ぎていた。


 七月の終わりにコノハちゃんが靴隠し事件を起こした後、小春さんとコノハちゃんはDA3を出て行った。この事件についてはまたどこかで話せると思う。二人がいなくなると、ここでの生活は少し静かなものになってしまったが、その生活にもしばらくすると慣れて、毎日同じリズムを刻んで生活していた。


 その日も僕は、いつも通りに朝食を食べ終わると、食堂のドアにかかるプレートをひっくり返し『OPEN』にして、ランチメニューの準備に取り掛かった。


 まだ午前中なのに、窓ガラスを通して、夏の日差しが容赦無くジリジリと照りつけ、勢いよく挨拶してくる。今日も暑くなりそうだ。


 永薪食堂では、お昼になるまではがっつり食べれる物は出さないけれど、珈琲や紅茶など飲み物と簡単なサンドイッチやパンケーキなどの軽食を出している。

 ここへ来たばかりの頃、僕は食器洗いさえまともにできなかったけれど、今では昼食だけでなく夕食のさまざまなメニューの下ごしらえまでできるようになっている。


「おまえが働きもの過ぎて、俺の出る幕がなくなりそうだな」


 オヤジさんが笑いながら、食堂の入り口の横に置かれた椅子に腰掛けてこっちを見ている。

 毎朝、お客さんが来るまでは、オヤジさんと会話しながらゆっくり仕事をする。この頃には、特に気負いすることなく会話ができるようになってきていると感じていた。ただ、会話と言っても、僕が喋ることはあまりなくて、オヤジさんが食材や料理について教えてくれるのを僕が聞いていることがほとんどだった。


 店を開けて小一時間経った頃、店の前で車が止まる音がして、オヤジさんは外に出て行いった。食材を配達してくるトラックが来たのだろう。外からオヤジさんの低い落ち着いた声と八百屋さんの豪快なしゃべり声が聞こえてくる。僕は夕食メニューのカレー用のナンの生地をこね始めた。


 僕はこの食堂での生活が、日に日に好きになっていった。

 ここでの生活はすべてが穏やかで、急ぐことも焦ることもほとんどない。

 お客さんが多い夜でさえ、オヤジさんは段取りよく仕事をこなし、慌てる様子はまったく見せない。常連のお客さんたちも、それぞれのペースで夕食を楽しむ。


 毎日が規則正しく進んでいく。単調だけど平和な日々だ。


 もし僕が過去の記憶を持っていて、非日常的な出来事や、特別な経験をたくさん覚えていたら、ここでの生活は退屈なものに感じられたかもしれない。


 けれど、今の僕にとっては何もかもが目新しく新鮮だった。どんなに些細で小さな出来事もそれぞれが印象的で、違う色を持っていた。そして、日に日に増える新しい感情の置き場に困ってしまうほどで、心がこそばゆいくらいだった。


   ◇     ◇     ◇


 そんな満たされた生活を送る中で、僕は毎晩夢を見た。

 その夢は、夢というにはあまりにも現実味を帯びたものだった。


 夢の中では、『今の僕』が知らない人間だれかがいつも『昔の僕』のそばにいて、コロコロと表情を変えながら僕に話しかけてくる。何の話だったかは目が覚めるといつもすぐに忘れてしまうけれど、優しく澄んだ声だけは何時間経っても、まるでさっきまで声を聞いていたようにはっきりと思い出せる。いつまでも、いつまでも、永遠に見ていたい夢だった。


 ただ、これは良い夢の時で、悪い夢の時には、僕は決まって薄暗い部屋にいて、崩れ落ちていく何かを必死で掴もうとしていた。でも、その何かは僕の手の平からいつもこぼれ落ちてしまう。僕の中から、外から、叫び声や泣き声が反響して聞こえる。悲しくて、辛くて、痛くて、耳を塞いでも流れ込んでくるその声に、頭が何度も割れそうになった。


 夢の中の僕は、今の僕とはまったく違う人間のようだった。

 笑い方も、怒り方も、悲しみ方さえ、今の僕がここでは感じたことがない感情を抱いていた。


 毎晩僕は、『夢』という名の映画を見ている気分がした。


『夢』を見ている間は、パズルのピースを組み合わせるように、一人の人間の姿が徐々に現れてくるのに、『夢』から覚めると、組み合わさっていたピースはパラパラと崩れてしまい、その姿は瞬く間に跡形もなく消え去り、形をとどめてはくれなかった。


 その記憶の曖昧さは、まるで何年も前に見た映画のようで、断片的に残る記憶を手繰り寄せても、その全容を浮かび上がらせることはできなかった。


 永薪食堂での生活や経験とはまったく関係ない夢を見るたびに、これらの夢は、記憶を制御される前の僕に関係あることであるような気がしてならなかった。


 夢の中で闇を覗くたびに、知りたいと思う気持ちと相反して、すべてを覆い隠してしまいたい衝動に駆られた。


 ただ、その強い感情さえ、目が覚めるとあっという間に薄れていき、五分も経たないうちに消えてなくなってしまった。


 きっと、以前の僕は、今とは全然違う生活を送っていたのだろう。

 穏やかで単調な日々とは正反対の、ひどく不安定な日々を送っていたように思える。

 暖かな光に包まれるような時間と、深い闇に落ちていくような身動きの取れない時間を、行ったり来たりしていたであろう過去の自分は、一体どんな人間で、何を望んでいたんだろう……。


 今の僕には想像すらできない。


 もし、過去の自分と今の自分がまったく違う人格を持っていて、感じ方も違うなら、過去の自分はもう存在しないのであって、極端に言えば、死んでしまったのと変わらないんじゃないか?


 つまり見方を変えると、記憶が戻るというということは、今の僕を捨てること。

 今ここにいる僕が消えてしまうことと同じなのかもしれない……。

 自分という人間は、何があっても自分自身は変わらない存在だなんて、そう簡単には言えない。

 牧さんがここを旅立つ日に『ここでの生活が、今の私でいることが、終わるんだよ』と言っていたことを何度も思い出す。


 そうだ、自分という存在は不完全で脆い。たとえ、回復者となった時に、奇跡的にMCPの時の記憶が消えなかったとしても、今の自分が過去の自分を知った時に、僕は過去の自分を受け入れて、今と同じ僕でいられるのだろうか?


 僕は、今ここにいる僕自身を殺してまで、過去の自分を取り戻したいのだろうか?

 過去の僕は、今の僕を殺してでもこの世界に戻ってきたいのだろうか?


 毎朝目覚める瞬間に、小さな疑問が湧いては、僕の意識からこぼれ落ちる。

 僕は日増しに『夢』を見る頻度が高くなり、白昼夢まで見るようになっていた。


 まるで昔の記憶が僕の意識下に出ようと足掻いているように思えた。


   ◇     ◇     ◇

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