(104)   Area 1 Rewind 消えた凍結体

 --消えた凍結体-- #僕


 バッラクの部屋の窓から差し込む光が月から太陽に変わり、鳥たちの鳴き声が運河沿いに響きだした頃、窓の外から聞こえる大音量のニュースで、僕は目を覚ました。


「緊急速報です。


 国立第一脳科学研究所内の凍結体保管庫に保管されていた、

 一体の凍結体が行方不明になっているとの事実が、

 施設関係者からの情報で明らかとなり、

 本日午前四時五十八分に警察から正式発表されました。


 登録番号はFB—045RE。

 なお、事件の捜査を妨げる恐れがあるため

 凍結体の氏名は公表されておりません。


 第二開発地区DA2特別警察は対策本部を設置し、

 全力を挙げて凍結体の捜索中であるとのことですが、

 現在までの状況は文書での発表のみであり、

 詳しい情報は、捜査が進み次第発表されるもようです。


 なお、凍結体は服役中の受刑者である可能性があるため、

 周辺の住民は、できる限り外出を控えてください。


 また……」



 うるさいなぁ。


 僕は大きな音が苦手だ。


 音から気持ちを逸らそうとしても、頭の中で反響して鳴り止まなくなり、横になっていても目眩に襲われたようにクラクラとして、気分が悪くなってしまう。


 街中に響き渡るニュースの音から逃げることなどできないから、仕方なくマットレスの横に落ちているブランケットを手繰り寄せると、頭からすっぽりと被り、両手で耳を押さえて緊急速報が終わるのを待った。


 自分がこれほどまでに音に敏感なことに気がついたのは、このバラックで生活し始める前に、住み込みで働いていた食堂で洗い物をしている時だった。


 僕の隣で食器を片付けていた食堂の店主が手を滑らして食器を落とし、割ってしまった。その瞬間、僕は耳の奥がつんざくような感覚に襲われて、パニックに陥ってしまった。あの時は、五分ほど休憩したら仕事に戻れたけれど、音によっては、一日中目眩めまいが続くことがある。


 まだ頭の中で大音量のニュースが響いているけれど、今日は大丈夫だろうか。


   ◇     ◇     ◇


 僕が住んでいるのは第三開発地区DA3にある運河沿いのバラックだ。

 バラックの窓から見える運河を挟んで、第三開発地区と第二開発地区——つまり、DA3とDA2は向かい合っている。


 そして、DA2の街角のビルに設置された大画面のスクリーンに、朝から晩まで広告やニュース、天気予報を映し出しされているのだ。

 流される映像は通常は無音だが、緊急時には大音量の音声とともにニュースが流れるから、バラックの住人にとってはたまったもんじゃない。


 当然と言えば当然だが、DA3の管理人もいないようなバラックの壁に防音が施されているわけがなく、バラックの他の住人たちも、大音量で容赦無く響き渡るニュースに起こされて目を覚ましたようだ。


 DA2の堅牢けんろうな建物の中にいれば、ちょうどいい音量なのかもしれないが、こっちは隙間風の吹き抜ける、なんとも頼りないバラックに住んでいる。


 早朝から大音量でニュースを流すのは、本当に勘弁してほしい。

 

 それにしても、あっちの世界は大袈裟おおげさだな。

 こっちじゃ、犯罪者なんて捕まえられないほどゴロゴロいるのに……。

 向こうじゃ、たった一体の凍結体が行方不明になったくらいで、朝っぱらから騒いでるなんて。


 目眩が治らないので、目を閉じてじっとしていると、過去数ヶ月の記憶が、現在という名の重力に逆らうように引き寄せられ、走馬灯そうまとうのように脳裏に蘇ってきた。


   ◇     ◇     ◇


 僕は半年ほど前に、DA2からDA3に労働力として移送されてきた。

 移送の前日、DA2にある記憶制御施設で、僕は目を覚ました。


 今の僕には、その日よりも前の記憶がない。


 記憶制御施設で目を覚ました日、僕はひどい頭痛に襲われながら、周りの状況と自分の置かれた立場について施設の人から説明を受けた。


 説明の内容は多岐に及んだ。


(具体的にいうと、記憶制御技術の使用が合法化された社会的背景や、MCP記憶制御された者——俗に言う「キオクナシ」——がどのような存在であるかなどについて、説明を受けた。)


 施設の人の話によると、僕は何らかの罪を犯して服役中の受刑者であり、——罪の内容については教えてもらえなかったが——刑期を短縮するために、自ら望んで、記憶を制御されるためにこの施設に来たらしい。


 けれど、記憶制御の担当者から契約内容の説明を受け、自筆の署名が入った同意書と契約書を見せられても、過去の記憶が制御されているため、まったく身に覚えがなく、目に映るすべてが、いや、五感で感じるすべてが現実味を失っていた。


 まるで古い白黒映画を見ているかのように、何もかもぎこちなかった。


 施設では、事細かくMCPについての説明を受けた。

 だが、自分自身の名前を教えてもらうことはできず、身元を知るための頼みの綱とも言える僕の署名は、元の文字が判別できないほど崩れた筆記体で、何の手がかりにもならなかった。


 それでも、渡された白い紙にペンを走らせると、まるで手が覚えているかのように、難なく同じ筆跡の署名を書くことができた。そして、これは間違いなく僕の署名なんだと強く感じた。


 結局、僕は自分の名前すらわからないまま、目の前にある現実を受け入れざるを得なかった。


   ◇     ◇     ◇


 その夜、僕はひどく寝付きが悪く、何とか眠りに落ちても、数十分後にはびっしょりと汗をかいて目を覚ました。汗の染み込んだ、じっとりとしたシーツが気持ち悪く、再び眠りに落ちるまでにひどく時間がかかった。


 パイプベッドしかない部屋はがらんとしていて、自分の呼吸音まで反響して聞こえる気がした。


 次の日の朝、僕は建物中に響き渡るアラームで目を覚ますと、細かなことを考える余裕もないまま、他のMCPと共にこれからの生活で守らなければならない規則を叩き込まれた。


 一通りの説明が終わると、MCPは皆、言われるがままに食堂に移り、昼食を食べた。


 すべてが無機質に思えた。


 四方の壁が白い食堂には、南側の窓から強い光が差し込み、目がくらむほどまぶしかった。


 昼食に出されたチャーハンは、舌が麻痺まひしたのかと思うほど、まったく味がしなかった。食事中だというのに、魂が抜け落ちたかのように無表情なMCPが何人もいた。


 周りにはたくさんの人がいるのに、彼らが話す言葉が何一つ理解できなかった。飛び交う言葉はまるで言葉としての形を失ってしまったようで、ざわざわとした雑音になって僕の耳の奥で反響していた。


 午前中の説明によれば、午後には、記憶を元の状態に戻す『記憶制御の解除の日』まで働くことになるDA3の国立農場かその他の指定の派遣先にMCPは移送される。

 僕はこれからそこで四六時中、他のMCPと働き、寝食を共にし、決められたことだけを遂行する日々を送ることになるらしい。


 人口が減少し、農業が衰退し、さらに、他の国からの輸入を期待できない現在のこの国の状況では、MCPは食糧難を解決するために不可欠な労働力なのだそうだ。


   ◇     ◇     ◇


 昼食から数時間後、僕は移送中の大型バスの中で、これから待ち受ける生活に対する不安と戦っていた。


 柔らかな春の光が満ち、風のそよぐ川辺の道を、僕らを乗せた大型のバスが走り抜けていく。

 僕の心の中とは裏腹に、目の前に広がる景色はあまりに長閑のどかで、まるでお伽話とぎばなしや夢の中にいるようだった。


 DA2にある記憶制御施設から出発して一時間ほど経っただろうか、高層ビルの群れを抜けて、運河にかかる橋を渡ると、『第三開発地区DA3』と書かれたの標識が僕の目に飛び込んできた。


 バスの窓の外に広がる景色は味気なく、右手には高さが三メートル以上ありそうな灰色の壁が何百メートルも続いていて、その壁の向こう側には、果てしなく大きい無機質な真っ白い建物がそそり立っていた。


 永遠に続くかと思われた灰色の壁がぷっつりと途切れ、巨大な扉のついた門が目に入ってきた。門の扉は土色で分厚く、一昔前に作られたまま手入れされていないのか、ひどくくすんで見えた。


 南門と書かれたその門の脇で、バスは警備員の検査を終えると、ゆっくりと敷地内に入った。


 壁の外から見えていた真っ白い巨大な建物の前に来ても、バスは速度を落とすことなく、そのまま真っ白い建物の地下駐車場に進入し、駐車場の奥にある関係者専用入口の前で停止した。


 地下駐車場はほとんど照明がなく薄暗かったが、関係者専用入口にある両開きの自動ドアのガラスの向こう側では廊下の照明が煌々こうこうと輝いていた。


 その光は妙に明るくて、僕は目を閉じたくなるほど眩しかった。


 バスの前方のドアが開き、MCPが一人づつ番号で呼ばれて、車両からのろのろと降りて行く。


 なんの前触れもなく、関係者専用入口の自動ドアの向こうで、照明がカチカチと点滅しだした。僕は不思議と自分の名前を思い出せそうな気がして、無意識のうちに目をしばたたかせていた。


 照明の点滅に僕の気がれている間に、僕以外のすべてのMCPが席を立ち、車両から降りてしまっていた。

 ひとり残された僕は皆に続こうと立ち上がったが、バスを降りる直前にドアが閉まってしまった。最前列に乗っていた警備員もいつの間にか降車しており、MCPを促すように追い立てながら、関係者専用入口の廊下の奥に姿を消してしまった。


 その時突然、僕は頭の奥がズキズキ痛み出した。


 光が眩しくてこれ以上目を開けていられない……。

 何も考えられない……。


   ◇     ◇     ◇

 

 しばらく気を失っていたのだろうか。


 意識が戻った時には、僕は乗用車の後部座席に寝かされていた。

 運転席に座っている男が、僕の様子を確認するようにゆっくりと振り向いた。男の顔は逆光でよく見えないが、特に異常はないと判断したようで、車はゆっくり走り出した。


 窓の外の景色は目まぐるしく流れていくのに、まるで何もかも実体がないように思えた。


 僕の周りだけ、時が止まっているように感じた。

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