(103)   Area 2 I wish I knew... 手紙

 --手紙--


 2101.Dec.28.10:25 AM

「ミエ、おまえの父さんからの手紙を預かっている。明日直接会えないか?」


 2101.Dec.28.12:11 PM

 仁おじさん、今週はまったく時間が取れないの。その手紙、郵送できない?


 2101.Dec.28.01:20 PM

「ミエ、働き過ぎじゃないのか?

 おまえのことだから、寝る時以外は家にいないんじゃないかと思って、三時に、ラボに届くようバイク便を手配した。

 忙しいのはわかるが、たまには電話くらい出なさい」


   ◇     ◇     ◇


 遅めの昼食を終えてミエが研究室に戻ってくると、同僚の北田が電話を切ったところだった。


「西門の守衛からミエ宛にバイク便が来てるって電話だったよ。『受け取りにサインが必要なので、西門までお越しください』だってさ」


 ミエはそっけなく北田の方を見て、「わかった。また仁おじさんかな……」と言うと、入ってきたばかりのドアを開けて研究室から出ていった。


 ミエは二十代半ばの脳科学研究所の研究員だ。彼女のことを知らない人からは新人扱いされることが多いが、実は既に十年近く正規の研究員として、この研究所に所属している。

 背は標準より少し高いくらいあるが、肩幅が狭く、若干小柄に見える。


 研究に追われる日々を送っているため、見た目にこだわる様子はあまりなく、肩に掛かるほどの長さに切った髪の毛をいつも無造作におろしている。

 姿勢が悪く右に傾いて作業をしているからか、前髪は左半分だけが目に入ってきてしまうので、その部分だけをシンプルな黒いヘアピンで簡単に止めている。


 童顔に特徴的な垂れ目をしているため、笑顔でさえいれば親しみがわきそうな顔つきなのに、柔らかな目元とは対照的に、刺すような視線と釣り上がった眉のせいで、大抵の人に近付き難い印象を与えてしまい、大多数の同僚から恐れられていた。


 実際のところ、ミエが普通に相手の目を見るだけで、目を合わせた相手は、鋭く睨みつけられたと感じてしまう。人に怖がられていることはミエ自身も重々承知していたが、本人はあまり他人と関わりたくはないので、避けられようが嫌われようが気にしてはいなかった。


 ミエは決して人をわざと傷つけたり、陥れたりすることはなかったが、愛想がいい性格でもないので、受け答えはそっけなく、扱いづらい人間であることに変わりなかった。


 そんな性格のせいで、どれだけミエが優秀でも、同じ研究室にいたいと思う人間は、この研究所には長年存在しなかった。


 けれど、だてう虫も好き好きとはよく言ったもので、不思議なことに、北田だけは、出会った日からミエの扱いに困ることがなく、彼女を本気で怒らせることもなかった。


 そんな北田のことを知った——本来ミエと同じ研究室にいるべきである——ミエと同じ分野を担当する研究員たちは、このチャンスを逃してなるものかと、大胆な行動に出た。


 彼らは、北田の専門分野や研究内容がミエとは違うにもかかわらず、ミエの研究室に広いキュービクルを設置し、座り心地のいい椅子まで用意して、北田にそのキュービクルに移動するよう願い出たのだ。


 北田としては広い空間で心地よく仕事ができる上に、感謝もされて、いいこと尽くめだったので快く承諾した。逆に、ミエと同じ分野の研究員は、北田のいるべき研究室の片隅に、自ら申し出て移動していった。


 彼らは、狭くとも気楽に過ごせる空間で仕事をできることに、喜びを感じていた。まさに、WIN—WINウィンウィン(両者にとって好都合)の状況だった。


 その後、ミエと北田の研究室には、もう一人新人の研究員が所属してきたが、所属早々出勤しなくなっていた。

 その新人研究員のために用意されたキュービクルは、寂しそうに新人研究員の帰りを待っていたが、他の研究員は、『新人研究員はきっと、勤務早々よほど怖い思いをして出勤できなくなったのだろう』と想像し、恐ろしくて、新人研究員のことを口にすることはなかった。


 そんな理由から、ミエの研究室には、基本的に他の研究者が入ってくることはなく、部屋はいつもがらんとしていた。


   ◇     ◇     ◇


 バイク便が西門の守衛まで来ているとの伝言を北田から聞いたミエは、研究室の前の廊下を足早に進み、エレベーターで一階まで降りて建物の外に出た。


 さして受け取りたくもない手紙だが、受け取らずに放っておいて守衛を困らせるのは、いくら気の強いミエでも少なからず気がひけるのだ。


(あの人からの手紙なんて欲しくないし、興味もないのに。父親らしいことなんて、一度だってしなかったくせに……)


 冬にしては日差しがやけに眩しい日の午後、目を細めながら西門の守衛に足早に向かう。


(憂鬱という気持ちは、一体どこから湧いて出てくるんだろう?)


 理由もなく、唐突にそんなことを考えながら、ミエはさらに歩調を早めた。

 見慣れたはずの研究所内の景色が、妙にくすんで見える。


 守衛に着くと、栗色のミディアムショートヘアの似合う、活発そうな雰囲気のバイク便のライダー、A4サイズの茶封筒をミエに渡すと同時に、受け取りのサインを求めて電子ペンと端末を差し出してきた。


 素早くサインを済ませ、電子ペンを返そうとしたその瞬間、ミエはそのライダーと目が合い、ギクッとして目を逸らした。決して悪意や殺気を感じたわけではない。だが、なにか尋常ではない気迫で意識を持っていかれそうな気がしたのだ。


「ありがとうございました!」


 ライダーはミエの気持ちを知ってか知らずか、慣れた様子で挨拶をすませるとバイクに跨がり、研究所の表通りのメタセコイア並木をすり抜けて、瞬く間に走り去っていった。


   ◇     ◇     ◇


 ミエが受け取った封筒を手に研究室に戻ると、北田はいつもと同じように部屋の奥にある会議用の折りたたみテーブルの上で昼寝をしていた。


 ブラインドの隙間から入るまぶしい光を避けるように、左腕で目を覆っている。どれだけ深い眠りに落ちているのだろう。見事といいたくなるほど、気持ち良さそうに寝息を立てている。


(会議用の折りたたみテーブルの上で仰向けになって寝るなんて、背中が痛くならないのかな?)


 初めてこの光景を目にした時、その異様な光景にミエは一瞬硬直して立ち尽くしてしまったが、慣れてしまえばこれも日常の光景だ。


「いくら眠たいからって折りたたみテーブルの上で仰向けで寝るなんて……。寝返り打って床に落ちても知らないわよ」


 ミエはボソッと呟くと、自分のキュービクルに戻りデスクのイスに腰掛け、さっき受け取ったばかりのA4サイズの茶封筒の封をハサミで切って開いた。


 茶封筒の表には仁おじさんの特徴である大きな字で、宛先と宛名が書いてあり、封筒の中には半分に折られた三枚のレポート用紙とともに、ハガキサイズ程の白い封筒が入っていた。


 白い封筒には、几帳面なあの人の字で『ミエへ』と書いてある。ミエはその白い封筒をデスクの端に置くと、レポート用紙を手に取って広げた。


 レポート用紙の枠線を無視した大きな字が、ミエの目に入ってくる。レポート用紙は、仁おじさんからの手紙のようだ。


 ミエは手紙を手にしたまま目をつむると、深く息を吸って吐いた。


 かなり大きな字で書かれているので手紙の内容は短そうだが、ミエは仁おじさんからは、手紙どころか、誕生日のカードも貰ったことがないので、多少困惑しながらその手紙を読み始めた。


 ————————————————————————————

 ミエへ


 さっき留守電に残した通り、

 おまえの父さんからの手紙を同封した。

 手紙は昨日預かったものだ。

 俺も総司とはしばらく会っていなかった。

 おまえが、総司に会いたくないのは知っているし、

 色々解決していないこともあるんだろう。

 ただ、この手紙だけは、読んでやってくれないか?


 俺は手紙を書くのは苦手だから、

 本当はミエと直接会って話がしたかった。

 今日は無理なのはわかったが、

 また時間がある時に連絡してくれ。

 俺から言えることは少ないが、

 すべてが手遅れになる前に

 おまえと総司がちゃんと向き合えることを

 願っている。


 おまえの弟も、もう十七歳だ。

 もう何もかも昔とは違う。

 でも、まだ間に合うはずだと俺は思っている。


 ミエ、おまえは母親に本当に良く似ている。

 だからこそ心配なんだ。


 とにかく無理はするな。


 仁


————————————————————————————



(手遅れになる前になんとかしようって頑張ってるんじゃない!)


 ミエは心の中でそう叫ぶと、父親あの人からの手紙の入った封筒を開けないまま握り、デスク脇のゴミ箱に投げ入れようと手を振りかざした。しかし、握った手紙を手から離すことができなかった。


(どうして捨てられないの。どうして……)


 抑えられない苛立ちをぶつけるように、デスクの横に置いてあるカバンに手紙を突っ込んだ。


 そんなミエの様子を、北田は、目を覆っていた左腕を少し傾かせてできた隙間から、何も言わずに、ただ見つめていた。


 その日の午後、ミエは連日連夜、徹夜続きで取り組んでいた仕事のせいで溜め込んでいた疲れが出てきたのか、偏頭痛になり、まともに考えられなくなった。


 結局仕事はほとんど手に付かず、定時になるとミエは足早に研究室を後にした。

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