(094) Area 6 Elpis パンドラの箱
--パンドラの箱-- #海
『幸せ』……。
ここに来てから考えたこともなかった。そしてその言葉は、小さな無数の棘のように全身に突き刺さり、チクチクとした痛みを残していく。オヤジさんが訊いてきたときに、今の僕は幸せだとなぜ素直に答えられなかったんだろう。
幸せってなんなんだ……。今まで僕は幸せだったのかな?
考えれば考えるほど体が重たくなる。
冷たい風が、心にできた空洞に、傷をつけながら吹き抜けて行く。
昔の僕はどうだったのかな? 幸せだったのかな?
ここに来る前のことは何も知らないのだから、昔の僕が幸せだったかなんてわからない。
ただ、昔の僕は、心に何かを抱えて生きていたんだろう。
何か理不尽なことがあったから、罪を犯してしまったんだろう。
それでも、単純に不幸だっだと言い切れるだろうか?
きっと、どんなに辛い人生だったとしても、他人からすれば些細なことでも、幸せなことはあったはず。いや、あったと信じたい。
だけど、わからない。
今の僕には、何も……。
本当のことは、何もはわからない。
過去の自分のことを知ったら、僕は自分のことが嫌いになるのかもしれない。
それどころか、今とは違う人間になってしまうのかもしれない。
今の自分と昔の自分がまったく違う人格なら、今の僕はきっと消えてしまう。
本当は、ここにいることが正解じゃないのかもしれない。
昔の僕が戻って来ることを、今も待っていてくれる人はいるんだろうか?
それとも、僕はずっと、一人ぼっちで生きてきたんだろうか?
オヤジさんは何を思って、幸せかと訊いてきたんだろう?
オヤジさんは、幸せなんだろうか?
幸せって何なんだろう……。
その日の午後は偏頭痛になってしまい、休憩の時に痛み止めの薬をオヤジさんがくれたけれど、頭痛は治らず、終いには吐き気が襲ってきて、午後七時には仕事ができなくなってしまった。仕方なく二階の自分の部屋に行くと、ベッドに横になって頭を抱えた。
頭が割れそうだ。気が遠くなっていく……。
"消えたい、消えたい、消えたい・・・"
誰かの声がする。女の人の声?
この声、何処かで聞いたことがある。
あなたは誰? 僕はどこにいるの?
キッチンの床に座り込んだ人の影が見える。
"死ねばいいんでしょ?"
"違う!そんなつもりじゃなかったんだ。逝かないで、逝かないで!"
夢から覚めてしまう。記憶が消えてしまう。
こんなに苦しいのに、どうして目覚めたくないんだろう。
ズキズキと頭が痛む。体が熱い、熱で胸がちりじりになって、灰になってしまいそうだ……。
汗で服がびしょびしょに濡れている。寒気を感じて目を覚ました僕は、さっきまで息が詰まっていたかのように呼吸が乱れていた。上手く息が吸えず、呼吸を整えようと体を抱えて丸くなった。
ゆっくりと息を吸っては吐く。
何度も、何度も、ゆっくりと。
呼吸が落ち着いてくると、意識も少しずつはっきりしてきて、さっきまで耳に入らなかった一階の物音が聞こえてきた。食堂でオヤジさんが注文を取る声や、お客さんたちの喋る声が聞こえてくる。それらの音はまるで寄せては返すさざ波のようで、音に耳を傾けながら、僕はまた眠りに落ちた。
◇ ◇ ◇
何時間経ったのだろう。目を覚ますと、外からシトシトと雨音が聞こえた。一階からの物音やしゃべり声はもう聞こえない。
もう十二時を過ぎたのかな?
ベッドから起き上がって机の上の時計を見ると、まだ十一時過ぎだった。変だなぁ。いつもなら、残業が終わってから店にやってきたお客さんが、まだたくさんいる時間なのに……。
喉が渇いていた僕は、ふらふらとした足取りで階段を下り、キッチンへ向かった。
キッチンに入ると、
ダイニングエリアに続く引き戸の隙間から光が漏れている。静かにその引き戸を開けると、食堂の奥のテーブルでオヤジさんがタブレット端末をじっと見つめていた。集中していて僕に気が付かないのか、顔を上げることもない。邪魔をしてはいけないと、そっと部屋に戻ろうとした時に、オヤジさんが僕に気がついて声をかけてきた。
「頭痛はマシになったか?」
オヤジさんはひどく疲れた様子で、僕を見ている。目の下に隈があるようだ。
「はい、大分楽になりました」
「そうか、よかった。夕飯はキッチンに置いてあるぞ」
「ありがとうございます」
閉店後の片付けも、もう終わっているようで、オヤジさんの座っているダイニングの奥のエリア以外は照明も点いておらず、店内はひっそりとしている。
「あの、店を早めに閉めたんですね」
「ああ、今日はちょっと、俺も疲れてな」
こめかみを指で押さえながら、思いつめた様子でオヤジさんは俯いた。
オヤジさんは考えを巡らすように、三本の指で指輪をつまみながら、クルクルと回している。オヤジさんがつけるにはずいぶん小さな指輪だ。
一体誰の指輪なんだろう。
オヤジさんは何を思ってここに店を開いたんだろう。かつては共に店を切り盛りしていた人がいたのだろうか。僕はふとそんなことを考えていた。
この店が夜に静かなのは、僕がこの店に初めて来た日以来だ。いつもなら、まだ残業帰りの常連客の人たちが、ゆっくり食事しながらくつろいでいる時間だ。僕のせいで、この食堂が閉まっているのは悲しくて、居た堪れなかった。
考え込んでいるオヤジさんや、ガランとした食堂を見ていると、心が痛んだ。今朝の会話の返事をしなければいけないと思った。だけど、何て言えば今の僕の気持ちがちゃんと伝わるのかわからない。一歩前に踏み出すことができずに、オヤジさんから目線を逸らそうとしたその瞬間、オヤジさんの指先からこぼれ落ちた。
コロコロと引き寄せられるように僕の足元に転がってきた指輪を、屈んで拾い上げる。やはり、かなり小さな指輪だ。女性者の指輪のように見える。シンプルなシルバーの内側に『S to C』と刻まれている。
何も言わずにオヤジさんに指輪を渡すと、オヤジさんは大切そうに財布の中に指輪をしまって、その財布をズボンのポケットにしまった。
奥のテーブルに戻ったオヤジさんは、テーブルの上にあったタブレットとグラスを手に取り、キッチンに向かいながら、
「今日はもう寝るよ」
と言った。その瞬間、いつもなら大きなオヤジさんの背中が、ひどく小さく見えて、僕はオヤジさんを引き止めるように声をかけた。
「オヤジさん! 僕は『今、幸せか』って……。あの、考えれば考えるほどわからなくなるんですけど……。ただ単純に、ここに居たいと思っていることは事実で……。それはきっと、つまり、居たいと思える場所があるということは、それだけで、とても幸せなことなんだと思うんです……」
話を途中で遮られるのが怖くて、僕は無我夢中で言葉を吐き出した。言いたいことがまとまらなくてもいいから、ただ伝えたいと思った。
けれど、結局、最後には頭がこんがらがってしまい僕は俯いてしまった。やっぱり上手く喋れない。ここに来てからずっとこんな調子で、いつも言いたいことの半分も言えたためしがない。
「ごめんなさい。上手く言葉にできなくて……」
「そんなことはない。ちゃんと言葉になっているよ。ありがとう、
オヤジさんはタブレット端末のスクリーンを伏せるようにしてカウンターの上に置くと、慎重に言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「海、このことについては、半年後の二月八日までに、またちゃんと話そう。ただ……」
そして、辛く苦しそうな声で絞り出すように、こう付け加えた。
「……もしも、すべてが元通りになれば、おそらく、もう、このままではいられないことになる」
と。
オヤジさんのその言葉を聞いた時、僕の頭の中で何かがプツンと切れた音が聞こえたような気がした。そして悪魔がささやいた。『おまえなんか死んでしまえ』と。
そして、その『おまえ』というのが、間違いなく自分自身を指していることが僕にはわかった。
僕は、今の僕になる前の僕を知ることが怖い。
僕はこの日、もしかしたら、パンドラの箱を開けてしまったかのかもしれない。
太陽の光のごとく降り注いでいた幸福を遮る雨雲が、勢いを増して僕らの頭上に向かっていた。不幸という名を背負った雨粒が激しく降り注ぎ始めたら、日常と呼ばれる幸福な時間は瞬く間に洗い流されてしまう。
そして、その流れに逆らえるほどの力を、その時の僕は持ち合わせていなかった。
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