(092) Area 6 Elpis 雨の夜に
店中の電気が消えている。はっきりとは見えないけれど、キッチンの床が何かで少し濡れている。目を凝らすと、キッチンのコンロの近くの床に、業務用の食用油の缶が転がっているのが見えた。
オヤジさん、どこにいるんだ!
目をこらすと、キッチンの
キッチンとダイニングの境にある暖簾のかかった引き戸が開いている。
食堂の前の道に車でも止まっているのだろうか。食堂の出入り口のドアのガラスから鋭い光が差し込んできて、その光がダイニングの床に横たわっているオヤジさんを照らし出した。オヤジさんの周りにあるテーブルや椅子が数台倒れ、床にはスプーンやナイフが散乱している。
「オヤジさん!? オヤジさん!?」
急いでキッチンからオヤジさんが床に倒れているダイニングに向かうと、オヤジさんはガタガタと全身を震わせている。足は不自然な方向に曲がっており、骨折しているようだ。
車のドアを閉めるバタンという音がして、エンジン音が響いた。侵入者が去っていったのだろうか?
「オヤジさん! 何があったの?」
オヤジさんの震えがひどくなる。痺れているようだ。背後で何かが爆発するような音がした。
「なんだ?」
突然真っ暗だった部屋の壁が不気味な揺れる光でオレンジ色に染まった。振り向くとキッチンの奥で、炎が揺ら揺らと、その姿を覗かせている。
「ここから逃げろ! あそこにある、タブレットを持って……」
息が浅くなり、ろれつがどんどん回らなくなっていく中で、オヤジさんは必死に言葉を絞り出している。
「できるだけ、遠くに、逃げるんだ」
「オヤジさん、遠くに逃げるって、どこに? タブレットはどこにあるの?」
オヤジさんは顔を上げると、僕の目を一瞬見て目線を僕の足元に移した。オヤジさんの目線の先にある床板には、よく見ると他の床板より若干広い幅の隙間がある。
僕は、急いでその床板を開けようとしたけれど、隙間が狭すぎて指がかからない。
「くっそ、開かない! なにか、隙間に入るものは……。あっ、フォークか何かを使えば……」
僕は床を見回した、手を伸ばせば届く位置にナイフやスプーンが落ちている。僕は急いでナイフを拾うと、床板の隙間差し込んで引っ掛けた。すると、床板は意外なほど簡単に外れた。床下には薄い箱が立てて置いてあった。その箱を床下から取り出して開けると、中にタブレット端末が入っていた。
僕がタブレットを手にした瞬間、オヤジさんの表情が和らいだように思えた。
「ジンを見つけろ。ミエに謝ってくれ」
「ジンって誰? オヤジさん! オヤジさん、しっかりして!」
床にばらまかれていた油に引火したのだろう、炎の勢いは増し、食堂を飲み込みながら僕たちに迫ってくる。
「いいか、おまえは犯罪者じゃない……。カイ」
「え、どういうこと? 犯罪者じゃないって? カイって?」
オヤジさんの息が浅くなっていく。どうして、こんなこと。何で、誰が?
「私がすべて悪かった。逃げ、ろ。すま、な、かった」
この言葉を最後に、オヤジさんは震えは止まり動かなくなった。息をしていない。いや、でもまだ助かるかもしれない!
こんなところにオヤジさんを置いてはいけない。
僕は必死でオヤジさんの体を持ち上げようとしたが、夕食後に飲んだ薬の副作用なのか、頭がクラクラとして体に力が入らず、巨体のオヤジさんを動かすことがまったくできない。
迫り来る炎に、オヤジさんの足が飲みこまれていく。勢いを増しながら炎がにじり寄ってくる。
僕は、タブレットを手にして立ち上がった。
オヤジさんの『ここから逃げろ!』という言葉が、頭の中でこだまする。
オヤジさんのことは……諦めるしかない。逃げるしかない。一人で行くしかないんだ!
食堂の出入り口は、もう火の海だ。僕は炎の波に押し流されるようにダイニングエリアの奥に追い詰められた。
奥の窓は開いている。僕はその窓から転げ落ちるように、食堂の裏に出た。
外に転がり落ちると同時に、天井の梁がギシギシと軋む音が聞こえた。
振り返ると、くぐり抜けたばかりの窓を通して、ダイニング中に炎が広がり、天井が崩れ落ちるのが見えた。
突風が吹き、火の粉が舞う。小雨の中を、火の粉が舞っては消える。
僕は立ち上がると、急いで裏の通りに出た。
振り返ると、家全体が真っ赤な火の玉のように、煌々と燃えていた。
オヤジさんの『ここから逃げろ!』『できるだけ、遠くに、逃げるんだ』という言葉が頭の中で反響している。
雨が勢いを増して、僕に激しく降りつける。
『濡れるぞ。傘をさしていけ』いつかのオヤジさんの声が僕を追いかけてくる。
何でこんなことになったんだろう……。
僕はどこへ逃げたらいいのかわからず、ただひたすらに走った。
何が正しいのか、何を間違えたのか、いつから間違っていたのか……。
ずっとずっと考え続けた。
「何で、何で何で……」
右も左もわからなくなって、何も考えられなくなるまで、ずっと、ずっと走り続けた。
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