(081) Area 11 Despair 歪んだ記憶でできた街
その翌日から、ほぼ毎日、僕は工場に仕事をしに行った。
穴見さんが仕事中に永薪食堂の火事の話を聞いたと言っていたので、働きだして一週間ほどは、食堂の常連客の人に出会ったら火事のことをなんて説明しようかと、散々悩んでビクビクしていたけれど、工場内は想像していたよりも広く多くの人が働いていて、知っている顔と鉢合わせすることはなかった。
工場長に会うことも基本的になく、たまに廊下ですれ違う程度だった。
日雇いの仕事は比較的簡単な作業であることが多く、各部門を仕切る社員によって、毎朝その日の配属先が決められた。
この工場に来てから、食堂にいた頃の自分の境遇がどれだけ特別で恵まれたなものだったのか、オヤジさんにどれだけ大切にされていたかを改めて知った。
この工場では暴力や暴言は日常茶飯事で、オヤジさんと過ごした世界とは雲泥の差だった。
僕がMCPであることは特に隠しているわけではないが、聞かれることもなかったため、誰にも言ってはいなかったが、他の日雇い労働者は皆MCPか元MCPらしく、僕も差別を受けることを避けることはできなかった。
◇ ◇ ◇
工場に通い始めて、もうすぐ二ヶ月経つ。時間が経つのはなんて早いんだろう。
五分もすれば慣れてしまう単調な作業を続けていると、僕の頭の中にさまざまな疑問が浮かんでは消えた。
記憶もない。
名前もない。
行き場所もない。
「僕は、一体なんなんだろう……」
僕がふと漏らした言葉に、トキさんが言った。
「なんだ、海、また何か考えてるのか?」
穴見さんがいなくなってから、まともに扱ってくれる人はこの人しかいない。トキさんとは仕事でペアを組むことが多い。
トキさんは、短く刈った黒髪に切長の目が特徴的な五十歳前後の男性だが、見た目はかなり若々しい。いつも黒の作業着を着ていて、細身だがひょろっとしているわけではなく、いつも堂々と構えていた。特に目立ったことをしているわけではないが、周りから一目置かれている。僕のことを気に入ってくれているらしく、朝の班決めで、できる限り同じ班になれるように計らってくれている。
「そんなにな、必死になる必要なんてないと思うぞ。
俺なんか、今のことさえまともにできないまま生きているんだ。
確かに今まで大変なことの方が多かったかもしれないけど。
これでいいって最近は思える。海もそんなに自分を追い込むなよ」
トキさんは独り言が多い。それに、かなりのおしゃべりだ。僕が一言しゃべると、必ずと言っていいほど何十倍もの言葉が返ってくる。
トキさんはMCPではない。この地区での空港建設が頓挫した後に、農業開発を支えた元建築関係者である第一世代の子どもで、この土地で生まれた第二世代だ。彼はDA3でもかなり古いエリアにある一軒家に住んでいるらしい。
トキさんは僕がこの工場で働き始めて間もない頃に、こんなことを言っていた。
『俺のような二世のほとんどはな、
高校を卒業する頃にはこの地区を出て行ったよ。
ここは安全じゃないし大学もないからな……。
でも俺は違った。俺はな、ここで生まれて育ってきた。
母さんもオヤジもここに骨を埋めた。
いいことも悪いこともここで全部経験したんだ。
だから、結局この土地を捨てられなかった。
外の人間からすれば、
出て行く権利があるのにここに残るなんて信じられない話らしいが、
結局俺はここしか知らないし、
自分の立場が悪いなんて思ったこともないからな。
確かにここは治安が悪くて危険だし、
差別ばかりで荒れた場所なのかもしれない。
でも、誰だって、自分を捨てなきゃ幸せになれないなんて言われたら、
歯向いたくもなるだろう?
俺はここにいるやつと、この場所をもっと良くしていきたいんだよ』
ある時、トキさんはこんなことも言っていた。
『本当に大事な人のことはな、
その人がどんなに弱くても、立ち止まっていても、
存在してくれるだけでいいって思えるもんだよ。
どんな失敗をしても、間違いを犯しても、
後悔して苦しんでいたら許してしまう。
自分のこともな、それくらい大事にしてやればいいんだよ。
不思議とな、自分を許すってことに関しちゃ、人間はかなり不器用で、
そう簡単にはいかないんだけどな』
トキさんは休憩の時間には決まって、雑誌や本を読んでいた。
難しそうな哲学や絵本、情報誌など、特にジャンルは決まっていなかった。
この時の僕はトキさんのことをまだよく知らなかったので、どこか孤独な人なんだと思っていた。そして、どんなことがあっても許してしまう。そんな人がトキさんにもいたのだろうか? なんて考えていた。
僕は少しでも
ここで出会う人は基本的に、
使えなくなったら、捨てればいいと思っている。
トキさんは、目立った行動をとってはトラブルに巻き込まれがちだった僕に、MCPがこの工場で生き抜いていくコツを教えてくれた。
『目立たず、おとなしくしてろ。何か言いたければ俺に言え』
トキさんの助言は単純明快でだった。
それでも僕は懲りずに、非MCP(記憶制御されていない者)に逆らってばかりいた。
けれど、不思議と工場から追い出されはしなかった。
自分以外のMCPと関われば関わるほど、穴見さんが言っていた『あんたは他のMCPとはどこか違う』という言葉の意味が身に染みてわかってきた。
特にMCUにかけられたばかりのMCPの挙動や言動は傍から見ていても異質で、反抗心や暴力性は皆無であり、自発性にも乏しかった。
工場で働くほとんどの非MCPの作業員は、毎日飽きもせず気まぐれにMCPに当たり散らしてくる。
昨日の朝は、博打で負けて機嫌が悪かったせいでグループリーダーが新米のMCPに殴りかかった。僕はその二人の間に割って入ったせいで怪我をしてしまった。昨日の夜にその傷をかばうように腕を抱えて眠っていたせいで、今朝目が覚めると、身体中がガチガチにこわばっていた。
潜在的に身を守るように、生物はプログラミングされているはずだ。それなのに、ほとんどのMCPは何もかもすべて諦めてしまったかのように、抵抗もせずにただ生きている。
非MCPの多くも、結局のところ自由からは程遠いような生き方をして、自分を傷つけることしかできない人がたくさんいるように思えて仕方がなかった。
どうして人間はこんなにも不器用なのだろう。
◇ ◇ ◇
「昨日の怪我、痛むのか?」
僕の腕の動きがぎこちないことに気がついたトキさんが、心配してこっちを見ている。
「少しだけ。でも大丈夫です」
「また余計なことに関わるからだよ。せっかく俺が面倒見てやってんのに、自分から問題に首を突っ込んじゃどうにもならないだろう」
トキさんは呆れた様子でそう言うと、遅れ気味な僕の作業を手伝ってくれた。
「すみません」
謝った僕に、トキさんは、
「ま、お前のそんな
と返すと、作業し終わった部品をコンベアーに流して、隣にある自分の持ち場に戻っていった。
◇ ◇ ◇
その日の作業が終わり、工場の前でトキさんと別れると、僕は足早にバラックに向かった。途中に寄ったスーパーで、穴見さんと一緒に食べた惣菜のあんかけのかかった豆腐を見つけて買った。
バラックに帰ってくると、誰もいない部屋に向かって「ただいま」と言った。買ってきたお惣菜を、急須で淹れたばかりの温かい緑茶を飲みながら食べた。
昼間のトキさんの『そんなに自分を追い込むなよ』という言葉が頭の中をぐるぐる回る。
僕は焦っているのかもしれない。
オヤジさんや穴見さんと別れてから、時間だけが経ってしまった。
僕はどこへ行けばいいんだろう。どうしたらちゃんと前に進めるんだろう。そんなことを考えていたら、秋風が吹き付ける季節の変わり目に、布団もかぶらずに眠りこんでしまった。建て付けの悪い窓枠の隙間から入り込む風が冷たい。冬はもう、すぐ目の前までやって来ている。
"カチ、カチ、カチ…….。"
時計は部屋にないのに、秒針を刻む音が聞こえる。
"ごめんなさい、ごめんなさい。"
どす黒い影が目の前を覆っている。黒い塊が動かずに倒れている。
"お願い、全部嘘だって言って。お願い。"
黒い塊に
ガサガサ
開いたままだった窓から入ったのか、テーブルの上で猫がスーパーの袋に顔を突っ込んでいる。
「ハックション!」
さむ……。風邪でも引いたかな?
僕のくしゃみに驚いて、猫は勢い良く跳ねて、窓から外に飛び出していった。
黒猫……。
夢の中のどす黒い塊を思い出して、僕は寒気がした。夢の中の塊は生暖かくて、とても重くて、ぴくりとも動かなかった。
間違いない、僕は死んだ誰かを抱きかかえていたんだ。
きっと、僕がすべてを壊してしまったんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます