(080)   Area 11 Despair 正しさの基準(この世界の歴史)

 --正しさの基準(この世界の歴史)-- #海


 僕は一人で、逃げる場所も目指すところもない。

 こんな体、捨てていけたらいいのに。重くて、痛くて……。


   ◇     ◇     ◇


 弱肉強食の社会では、富が正義となり、底辺で生きる者から、当然のごとくすべてを奪っていく。そんな世の中で記憶のない僕らの立場は弱く、差別は凄まじく残酷で、人権などほぼ存在しない。



 キオクナシ——正確に言うとMCP、つまり記憶制御された者——は犯罪者だ。

 しかし、たとえ犯罪者であっても、人間以下の扱いを受けていいものなのか?


 このような議論がなされ、犯罪者の人権や権利が与えられていた時代は一昔前で、今思えば、その時代はどれだけ平和だったのだろうと首を傾げる人の方が多いだろう。



 今から百年数十年ほど前に実用化されたインターネットで、世界はあっという間につながり、人々は情報の波に飲まれながら生活してきた。


 情報は時に渦をなして無力な一般人を飲み込んでさえいった。


 個人のハッカーや各国の機密機関による情報操作が行われ、一般人はそこに浮かび上がる出来事を事実と受け止め、真実が影をひそめていった。



 それから時が流れ、混沌と化した世界で、人々はそれでも自由と幸福を求めて暮らしている。



 異常気象、食糧難、紛争……。世界は人口減少と人口増加の地域に二極化された。


 人口が減少した地域では労働力不足で食糧不足となり、人口が増えすぎた地域では、階層社会の名のごとく、富は不平等に分配され、一部の人だけがそれらを享受し、その陰で大多数の人が食べ物すら手に入れられずに苦しんでいた。当然、犯罪は増加し、治安も悪化した。


 エネルギー資源の枯渇を避けるための再生可能エネルギー技術や治安を守るためのセキュリティー関連技術など、一部の科学技術は発達したが、その他の科学技術は百年前からそれほど発達せず、他の惑星へ移住などできないし、空飛ぶ車もない。もちろんタイムトラベルなど夢のまた夢の世界の話だ。


 世界中の国々や地域は国境で分断され、人や物の流れは管理・規制された。

 食糧や資源は多くの国や地域で常に不足し、人々は不自由な生活を余儀なくされている。


 そのような状況下で、犯罪者に対して税金を使うことを無駄とする考えが急速に支持され、食糧危機が過激な意見を正当化し、約二十年前に法律が改定された。


 法律の改正により、実刑が確定し、懲役刑や禁錮刑で刑務所に収監されることとなった人間は、(一応、本人の同意の元というお決まりのフレーズと共に)凍結されるか記憶を消されるMCPになることが可能となった。


   ◇     ◇     ◇


 ——凍結体について——


 科学技術の発展が人間を凍結・解凍することを可能としたのはそれほど昔ではない。


 人体凍結技術は今から数十年前に凍結体の動物実験成功、その数年後に希望者を募り人体で凍結実験を開始し、一定間隔で凍結体を解凍しその評価を行った。


 凍結希望者は主に、死期の迫ったガン患者や不治の病を追った者で、未来に特効薬ができるかもしれないという希望を込めて凍結体となった。

 一時期、凍結技術は夢の技術としてもてはやされ、人体実験開始十五年後には一般の利用希望者の登録を開始した。


 凍結登録申請は成人であれば可能で、登録されると、設備の使用状況と本人の希望が合致した際に凍結が実施された。

 この時点では、利用の際に保険適用は認められず、凍結登録料はかなり高額だったため、利用者は一部の富裕層に限定された。

 利用希望者は主に、道楽の一つとして未来見たさに登録申請するか、将来病気になった時の保険として申請することが多かった。



 人体実験開始後、二十から三十年ほどは凍結体及び解凍後の体に目立った変化や異常は発見されなかった。



 しかし、四十年を過ぎた頃から被験者が解凍後、外見上は大きな変化は見られないにもかかわらず、数年のうちに死亡するという事象が多発していることが明らかになってきた。



 調査の結果、身体を凍結すると、凍結解体後、急激な速さ(一年に三年から五年程度の速さ)で本来の年齢まで一部の細胞が老化することが判明した。


 その細胞の老化は、外見に大きな影響を及ぼすことはないが、生命の維持に不可欠な臓器の働きに影響を及ぼし、結果として生命を維持することができなくなるらしい。

 解凍後に一部の細胞が急速に老化する原因は不明だが、それぞれの人間が持つ寿命以上には身体を生き長らえさせることはできず、さらに、副作用として、目眩や吐き気等の症状もかなりの頻度で発生することがわかった。



 その結果、凍結を望むものはほとんどいなくなった。



 しかし、近年の人権をほぼ無視した法改正により、実刑の確定した人間に対しては凍結が可能となったのだ。

 ただし、基本的には、死刑囚や労働力となりえない受刑者以外は、本人の希望に応じて——二〇八二年に完成したMCUを用いて——記憶を制御し、労働力とすることとなった。


 そして、僕も、このような歴史的背景のもと、近年できた制度によってMCUにかけられMCPになった人間なのだ。


   ◇     ◇     ◇


 記憶制御施設の担当者の説明によれば、来年の二月八日に刑期を終えた時点で、僕の記憶は元に戻される予定になっている。


 だから、あえてバラックで住み、逃げ隠れしながら不法就労をして、自分の立場を危うくするべきではないと僕は何度も思った。素直に警察に出頭すれば、二月八日には記憶が戻り、自分が帰る場所が見つかるのだと信じたかった。


 けれど、火事の後、MCUやMCP、その他国の状況などについて知り、政府についての不信感を募らせていった。


 そして何より、あの不自然な火事の時にオヤジさんが『逃げろ』と言った声が、僕をこのバラックに留まらせていた。


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