2 熊との遭遇
「まあ。まあまあ、まあまあ!」
女中頭のハンナが目も口も大きく開けて、ヴェルデビヒトに駆け寄ってくる。
それを煩わし気に早足で避けながら、彼は自室に向かうため二階へと続く階段に足をかけた。
体重をその足に乗せる前に腕を掴まれる。
「お待ちくださいませ! ヴェルデビヒト様が向かわれるのは、浴室でございます。暑い時期はとうに過ぎたというのに、お友達と水遊びでもなさったというのですか!」
「うるさい。大したことじゃない。騒ぐな」
彼の兄達や姉なら(おそらく同じ授業を取っている同級生のほとんども)、この程度風の魔法で乾かしてしまうため、ハンナにうるさく言われることもない。彼女が目を光らせているのはヴェルデビヒトだけと言ってよかった。
「風邪を召したら大変です。さあさ、よく温まってきてくださいませ。着替えはハンナがお持ちいたしますので」
ヴァイスハイトがよそよそしくなっていっても、兄姉が憐みの瞳で見るようになっても、ハンナだけは変わらない。表面上は。だから、ヴェルデビヒトは彼女が苦手だった。
風呂から上がると、部屋着ではなくきっちりと正装が用意されていた。
さっさと部屋に引きこもってしまおうとしていたのを見透かされたようだ。どうせなら気まずい思いをする食事の席になど、つきたくはないのに。
態度は変わらなくとも、彼女はやはりカンターメン家の使用人なのだ。主人の意向が一番。当たり前だが。
諦めの気持ちで着替えて、彼は食堂へと足を向ける。
待機していた侍従がドアを開けた瞬間、中の和やかな空気は霧散した。誰もが口をつぐむ。初めから会話など無かったように。
そこにはすでに二男のカルトヘル以外の全員が揃っていた。カルトヘルはこの日、仕事で帰らない。ヴェルデビヒトにはあずかり知らぬことだったけれど。
「ではいただこう」
長い祈りの後、ヴァイスハイトが声をかける。
食欲が無くて手の中でフォークを遊ばせるヴェルデビヒトに、まず長兄のヴィッツから確認が飛んだ。
「ヴェル、試験の結果が出たのではないか」
「出ましたが」
「何か報告は」
ヴェルデビヒトは肩を竦める。
「……特に」
「ヴェル、無いわけがないでしょう」
姉のアルメヒティも口を挟んだ。
分かっていることを、なぜ報告する必要があるのか。解ってはいても、溜息が零れる。
今ので理解してくれないかと、ヴェルデビヒトは軽く全員の顔を見渡した。父以外の顔は彼を向いている。
「いつものように、実技以外は合格でした」
各々の口から息が細く吐き出されるのを聞いて、ますます食欲がなくなる。
ヴァイスハイトだけが変わらず食事を続けているのは、先に結果を聞いていたからだろう。
役目は果たしたとばかりに、ヴェルデビヒトは席を立った。
「ヴェルデビヒト」
ヴァイスハイトがここで初めて彼に目を向ける。何か言われるのかと、ヴェルデビヒトは少しだけ腹に力を入れた。
「食事のマナーも忘れたのか」
それほど咎めるでもない響きに、力が抜ける。
父にとっては自分はもうその程度なのだ。自嘲気味に口角を上げると、ヴェルデビヒトはできるだけ声を張った。
「気分が悪いので、下がらせていただきます。父上、母上、兄上、姉上におかれましては、どうぞご歓談を続けて下さい。私がいない方が話も盛り上がるでしょうから」
「ヴェル!」
母親の叱責の声にも、もう振り向かずに食堂を出る。
父の関心を失くした態度も、母の必要以上に憐れむ表情も彼には同じようにイラつくものだ。
試験結果に誰より落胆しているのは、ヴェルデビヒト自身だというのに。
何故、と思い続けているのは父だけではないのだ。
試験明けの街には、浮かれた生徒がそこここでサボっている。
そういう輩に混ざりたい訳でも、そういう風に見られたい訳でもなかったので、ヴェルデビヒトはまた湖の奥へと足を進めていた。彼等のように私服の着替えは持ち出せなかったし、制服ではどこにいても目立つ。
目的もなく、足元に視線を落としながら森を歩いていると迷子になりそうなものだが、彼がこの辺りで迷うようなことは一度も無かった。
常に湖の気配がする。迷いようがない。
そう言い切る彼を、学友たちは不思議そうな顔で見たものだ。
ザザ、と草をかき分ける音に、ヴェルデビヒトははっとして顔を上げた。
足を進めるうちに、ずいぶん奥まで入りこんでしまったらしい。野生動物との遭遇はあまり好ましくなかった。向こうが驚いて逃げてくれればいいが、魔法を使えない彼は相手の気を逸らすのも一苦労する。
学校に行くのに帯剣している訳もなく、あるのは小型のナイフと、火を熾せる
最悪は湖に出て、泳いで逃げる。
焔石とナイフを手にしながら、そこまで考えた時、大きな黒い物体が草叢から転げ出てきた。
思わず飛びのいて、しばし観察する。
大きな黒い毛玉のような物、と思ったのは、どうやら二頭の熊のようだった。
ごろごろと右へ左へ上下を入れ替えながら転がりまわる。
やがて下になった一方がその巨体を頭上へと放り投げた。
ズン、と足元が揺れる衝撃に呆気にとられる。
投げられた方は子犬のような情けない声をひとつ上げて、恨めし気に一唸りすると、すごすごと森の奥へと去って行った。
「はっはー! わしの勝ちだ!」
「うわっ」
残った一頭が人語を上げて、ヴェルデビヒトは驚いた。
それが飛び出してきた時よりもずっと鼓動が速くなる。
「……ん?」
熊は起き出してヴェルデビヒトを振り向いた。
ぐいと熊の頭を押し上げて、彼を向く鋭い灰がかった緑の瞳は人間のものだった。
「おぅ。驚かしたか? 坊主、こんなとこに一人で来るとあぶねぇぞ。それとも、そんだけの魔法の腕があんのか?」
ヴェルデビヒトを指差して二カッと笑った人物は、頭のついた熊の毛皮を纏っているようだった。
よっと立ち上がった姿は一言で大きい。
本物の熊が行ってしまった方を視線で確かめていると、その人物は続けて言った。
「もう戻ってこねぇ。まぁ、戻って来てもまた追い返すがな。エサ場を取られてたまるか」
「……餌場?!」
「おぅ。ようやく喋ったな。口はきけるんだな? そっちに山葡萄が生ってんだよ。食うか?」
指差した方に歩き出す人物に、ついて行こうか彼は暫し迷った。
明らかにマトモな人物じゃない。
「ほれほれ。なんだ。いっちょまえに警戒してんのか? 坊主を襲うほど困っても、悪ぃこともしてねぇよ」
こいこいと腕を振られて、ヴェルデビヒトはなんだか勢いで足を踏み出した。
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