38 一段落

 手綱もないのに全速力で駆ける竜馬に乗っているのは、意外と大変だ。

 いつもなら短い鬣を握り込むところだが、竜馬の口に突っ込んだ右腕は、ずきずきと痛んで力が入らなくなっているし、足にも限界が近い。

 少々情けないとは思いつつも、ビヒトは竜馬の首に両腕を回し、身体をすっかり預けてしまった。

 腕の位置が気に食わないのか、一度不満気な声を上げられたけれど、そうしないと振り落とされてしまうのだ。


 時々通りすがる人や馬車が、ぎょっとしたようにビヒト達を振り返る。

 どこまで行くのか、そろそろしがみついているのも辛くなってきた頃、ようやく竜馬は足を緩め始めた。ビヒトが少し体を起こして前を見遣ると、道の脇に寄って止まっている小さな荷台が見えた。

 はっとしているうちに急制動をかけられ、背から放り出される。


「……え? ビヒト……?」


 何とか受け身はとったものの、あちこちが痛んで、ビヒトはしばらく起き上がれなかった。


「ビヒト! 大丈夫!?」


 駆け寄るマリベルの後ろから「ギャギャッ」っと竜馬の声がする。野生の竜馬はクルルルルと高い声で応じて、ビヒトの襟首を咥えると、勢いよく引き上げた。

 一瞬、首つり状態になって慌てて襟元に手を入れる。咳込むビヒトをマリベルがおろおろと眺めていた。

 野生の竜馬が荷を牽く竜馬に近付いていったので、マリベルはなるべくそれから距離をとって回り込み、ビヒトを支えるように手を出した。


「あぁ、大丈夫だから。怪我は腕くらいなんだ。服、汚しちまう……」

「着替えはなんとかなるよ! それより、あの竜馬……野生の……?」

「……多分……」


 二頭はしばらく何かやりとりをして、そのうち野生のものがビヒトを振り返ってフンとひとつ鼻を鳴らした。そのまま街道を戻って行く。

 それを黙って見送ってから、マリベルに軽く支えられたまま、ビヒトは竜馬に近寄った。


「……もしかして、お前が呼んだのか?」


 クルルルと差し出された手に顔を擦り付けて、竜馬は血みどろのビヒトをじっと見つめる。それから、おもむろに長い舌で体中をべろべろと舐め回し始めた。


「わ……」

「だ……だめ! 食べちゃ駄目!」


 マリベルが必死の形相で間に割って入ったので、思わずビヒトは吹き出した。

 竜馬は少し呆れた顔をしているようにも見える。


「く……食われはしないと、思う」


 いつまでも笑いの止まらないビヒトに、マリベルは顔を紅潮させて腰に手を当てた。


「な、なによ! そんなに笑わなくてもいいじゃない! 心配してたって言うのに! もう! 知らない!」


 怒りながら御者台に戻って行くマリベルを目で追いながら、ビヒトは竜馬の首筋に抱きついた。ぽんぽんと軽く叩いて「ありがとう」と礼を言う。

 帝都に戻ったら、餌を奮発してやるべきかもしれない。

 むくれているマリベルの横へと腰を落ち着けると、彼は左手で手綱を揺らした。


「悪かった。マリベルがちゃんと無事で安心したんだ。少しヘマをしたから、竜馬が来てくれて凄く助かった」

「……ヘマって? 腕の怪我?」


 服が破れて血でへばりついている右腕にマリベルは眉を顰める。


「いや。これは、あの竜馬だ」

「え? 助けてくれたんじゃないの?! その子が“呼んだ”って……」

「呼び寄せてはくれたんだろうが、野生はそこまで甘くない。こちらが従うに値しないと思えば、容赦なく襲われる。この腕輪があって、及第点ってとこだったんだろうな」

「……護身具? あまり見ない材質だけど……」

「使わないに越したことはないんだが。今回はあってよかった」


 ビヒトはそれを外してマリベルに預ける。


「荷物に放り込んでおいてくれ」

「しまっちゃっていいの? 普通、つけっぱなしにするんじゃないの?」

「効果が危なすぎて対人には使いたくない」

「何ソレ」

「そう言う類のものだから、あいつらも協力してくれたんだ」


 ふぅ、と出た吐息に、マリベルは眉尻を下げた。


「……痛い?」

「まあ、それなりに。さすがにちょっと疲れたな」

「次の町で泊まろうか?」


 ビヒトは空を見上げる。昼は回っているが、夕方までには少し遠い。


「いや。でも、腕の治療だけはしたい。咬み傷は感染症が怖いからな」


 マリベルは頷いて、腕輪を荷台のビヒトの荷物の中へと仕舞い込んだ。



 ◇ ◆ ◇



 町医者を訪ねて一通りの処置をしてもらい、もう少し先までと竜馬を走らせる。ビヒトの中で予定していた街までは辿り着けなかったが、その一つ手前の街まではどうにか着くことが出来た。

 明かりが灯り始め、夕焼けの赤い色が地平線間際に辛うじて残っている程度という時間。

 竜馬の繋いでおける宿も見つかって、ビヒトは倒れ込むようにベッドに身を預けていた。

 控えめなノックの音がして、唸るような返事を返す。


「マリベルだけど……入ってもいい?」

「……開いてる」


 ゴトゴトと何やらぶつかるような音と共にドアが開かれると、たらいを持ったマリベルがゆっくりと入ってきた。


「もう寝ちゃってた? お湯もらってきたの。片手じゃ色々無理でしょ? 匂いも酷いよ? 手伝ってあげるから、身体拭こう?」


 医者の所で右腕と頭部の見えるところはざっと綺麗にしてもらっていたのだが、確かに服の下はそのままだった。もう面倒臭かったので、明日帝都に戻ってから冒険者協会ギルドの浴場で流そうとビヒトは思っていた。

 マリベルを見ながら、ベッドの上から動こうとしないビヒトに彼女は溜息を吐く。


「もう。だから、無理しないでいいって言ったのに」

「明日中には帰りたかったんだ」


 言って、ビヒトはのろのろと起き上がり、上衣を脱ぎ捨てるとマリベルの前までやってきた。

 赤黒い汚れがあちこちにこびりついている身体は、細身というよりは引き締まっていて、筋肉の塊がどう体を作っているのか指で辿れそうだった。

 ビヒトは横と上部の髪を後ろで括っていた紐を乱暴に外して、二、三度頭を振る。


「……どうした?」


 乱れた髪の間から呆けたマリベルの顔が見えて、彼は髪をかき上げながら聞いた。内側で血で固まった髪が指に引っかかる。


「へ?」


 肩を跳ね上げて視線を合わせると、マリベルはさっと頬を染めた。


「え……いや、あの…………な、なんでもない」

「下まで脱いだわけじゃないだろ。それとも、それを期待したか?」


 にやりと笑うと、マリベルはさらに顔色を濃くしてビヒトの背中に手形をつけた。

 跪き、たらいに頭を下げるビヒトの髪を、マリベルの指が丁寧に洗い流していく。湯はすぐに赤の色を溶かしていった。


「……全部は無理かも」

「ああ、いい。充分だ」


 緩く絞ったタオルで背中を拭き始める頃には、マリベルも平静を取り戻したようだった。グラスの曇りを取る様に丁寧に汚れを擦っていく。


「大きなものはないけど、小さい傷は結構あるね……ね、ちょっと熱いよ? 熱あるんじゃない?」

「ああ。そうかも」

「だから、無理しないでいいって言ったのに!」

「この位なら問題無い。早めに寝るよ」


 前に回ったマリベルからビヒトはタオルを取り上げる。


「後は、自分でも出来る。絞るのだけ頼む」

「わ、わかった」


 マリベルは一瞬だけ目を合わせて、ぷいと顔を背けた。

 顔を合わせるとダメなのかと、ビヒトは心の中で笑う。


「兄弟でもいて、慣れてるんじゃないのか?」


 拭き終わった汚れのついたタオルを渡しながら、手際の良さに予想していたことを問うと、マリベルはそれを洗いながら口ごもった。


「父さんが怪我をしてた時、同じようにしてたんだけど……」

「なんだ。じゃあ、大して変わらないだろう?」

「違うよ! 全然、違う……」


 いつまでもじゃぶじゃぶ言わせて洗い終わらない背中を見ながら、ビヒトはシャツに頭を潜らせた。


「……そうか。まあ、スッキリした。ありがとう」

「う、うん。今日はもうゆっくり休んでね」

「そうさせてもらう」


 ビヒトが再びベッドに横になるのを見届けて、マリベルはたらいを抱えて出て行った。


 廊下に出てドアを閉めると、マリベルは深く息を吐く。

 変わらないと思ったのだ。でも違った。

 日に焼け、若々しい肌に心臓が勝手に速くなる。昨日見た娼婦の顔が急にちらついて、その肌を合わせたのかと想像しそうになる。


「マリベルのスケベ……」


 バチバチと頬を叩いて、どうにか妄想を振り払うと、彼女はたらいを返すために階下へと向かったのだった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る