88 手探り
「参謀、殿、なのか?」
『はい。よく見えますね?』
独り言のような呟きに答えが返ってきて、ビヒトは瞬間、口を閉じた。
「……通じるのか? 見えてはいない。服の形で、そうかと」
『ああ……双方向は長時間は無理ですよ。手短にお願いします』
「そこで何してる。ヤツのことはまだよく分からないんだ。氷を溶かして何かしようとしているし、ひとりでは危ないからもう少し離れておけ」
『我が軍の転移が認められていませんから、現状、私しか動けないので。元々我々の相手だったのですから、黙って見ている訳にもいかないでしょう。これ以上の失態はいただけませんからね。多少の危険は承知の上ですよ。中継に徹しますのでお気遣いなく。水系の魔法は注意が必要そうだと、伝えておきます』
淡々と告げると、ビヒトの耳元を撫でていた風は通り過ぎていった。
参謀という肩書きから、現場に直接出るような人間じゃないと思っていたのだが、帝国の人事を甘く見過ぎていたようだ。保身のためかもしれないが、他に自国の助けが無い中で
「何だって?」
触手を振り切って戻ってきたヴァルムがのんきに聞いた。
「中継する、と。暗い中、ある程度確実な情報はアレイアにも役立つだろうが……」
「帝国らしいな。百パーセントの借りは作らねえってことだろ。上手くいきゃあ、アレイアの手の内も見れるしな。何人か目をつけて、引き抜きをかける気なのかもしれん。船に乗っていた魔術師も結構失っただろうからな」
「したたかというか、抜け目ないというか……」
転んでも何かを掴まずには起き上がれないという姿勢は、国のものなのか彼の本性か。
「帝国にゃあ、そんな奴等ばっかだ。手柄立てりゃあちゃんと取り立ててくれるが、失態を犯した時の制裁もそれなりだ。アレを湾に誘い込んだことに対する責任は他のヤツだろうが、討伐作戦の失敗はあいつの責だろうなぁ。最後の一隻、かろうじて残ったが、この事態は面白くないに違ぇねえ。破れかぶれでも功の一つもあげたいんだろう」
ヴァルムはにやにやと楽しそうだ。
「パエニンスラへの苦手意識が増えそうだな」
「どんくらい降格されるんかな。うちは術師系は揃っとらんからな。お
「まさか。領主は首を縦に振らんだろう?」
スパイを抱えるようなものだ。
驚くビヒトに笑うだけのヴァルムが、また微妙な不安をかき立てる。他国に誘われるというのは、彼にとってどの程度の利になるのだろう。
ビヒトは上空の参謀を見上げた。
その参謀が海獣から離れるように移動したかと思うと、魔術師たちの中の二つの魔力が膨れ上がり、重なっていった。
「ヴァルム、もう少し下がろう」
二人が木々の中に後退すると、海獣を真っ白な光が包み込んだ。
よく見ると、それがただの光ではなくて、ゆらゆらと揺れている白い炎だと判る。
海獣が撫でていた背中の氷の槍も瞬時に蒸発して、弦を引きちぎらんばかりの叫び声を上げながら、それはのたうち回るように躰を揺らす。
「お。『
興奮気味のヴァルムにビヒトも頷く。
手のひらに乗るような、ごくごく小規模の練習でしか彼も見たことが無かった。
この規模をひとりでは無理だ。おそらく、父と兄の連携。誇らしいような、悔しいような、複雑な思いが胸を占める。
「これ、焼き尽くすまで消えねーんだよな?」
「いや、籠めた魔力を消費しきるか、対象の形がなくなるまで、だ。大概のものは焼き尽くされるんだが」
炎を散らしながら暴れていた触手が崩れ落ち、動きが鈍くなり、昼のような明るさの炎が消えるまで、鐘ひとつ分くらいだったろうか。周囲の熱まで奪って燃えていたかのように、炎が消えると冷やりとした空気が朝の気配を感じさせた。
東の空が白み始めていて、雷雲が留まっているのがこの辺りだけだと分かってくる。
白い炎が消える前に、海獣の表面は真っ黒に炭化していた。その形は保ったままだったので、警戒しながらビヒト達は近づいた。
ぶすぶすとまだ身を焦がす音がしている。
が、炭化した躰はゆるく蠢いていた。
「蒸し焼きにされといて、まだ生きとる」
さすがのヴァルムも声に苦味が混じっていた。
高度を下げて同じように様子を見に来た参謀に、ビヒトは手を振って近付くなと示す。
「これだけ焦げてれば、頭の殻も脆くなってるんじゃないか?」
殻に守られている下に急所があるなら、止めを刺すのに今以上の機会はない。
ふむ、と頷いたヴァルムは「やってみるか」と海獣の背に飛び乗った。踏みつける靴の下で炭化した躰がざりざりと音を立てる。
乾いた唇を一度舐めて湿らせると、ヴァルムは幅広の剣を振り被った。
ガツン、と、岩と岩がぶつかり合うような音がした。
「――っつ!」
低く呻く声と、盛大な舌打ちがヴァルムの口から漏れる。
どくんと脈打つように黒い塊が少し膨らみ、ヴァルムはバランスを崩した。
「ヴァルム!」
ビヒトは落ちてくるヴァルムの巨体を、魔力で筋肉強化した上でなんとか受け止める。体勢を立て直したヴァルムは、顔を顰めたままビヒトの腕を引いて走り出した。
「……文字通り、
走りながら振り返ったビヒトの目に、黒い塊が徐々に膨らんで、炭化した部分に罅が増えていくのが見えた。
ぱき、めき、と不気味な音の間隔が段々狭くなる。
やがて内側からの圧力に耐え切れなくなって、炭化した部分が弾け飛んだ。
二人はどうにか木の陰に飛び込んで、散弾となって飛んでくる塊をやり過ごす。護りの魔法をかけてもらっているから、逃げなくとも当たりはしないはずだが、こんなことで消費するのは避けておきたかった。
隣の木の陰で額に汗を浮かべるヴァルムを見て、ビヒトは眉を顰める。
「どこか、やられたのか?」
「いんや。アイツ、すでに下に新しい殻がありやがった。モロに衝撃が返ってきたから、さすがに痛みが、な。少し休みゃあ大丈夫だ」
バラバラと木々に当たる音が引いてから、ビヒトはそっと様子を窺う。
崩れ落ちた触手も、何事もなかったように戻っていて、ともすれば表面は艶々として見えた。
「一皮剥けたくらいにしか感じてなさそうだな」
苦々しい言葉を聞きながら、参謀はと視線を上げる。上空、高いところに浮いているので大丈夫なのだろう。
一筋の風がビヒトの首に巻きつくように吹いて、耳元を通り抜ける。
『仕切り直しですね……』
一方的に飛ばしてきた声も、硬く聞こえた。
水もダメ、炎もイマイチ。風でちまちま削っていくしかないのかと、ビヒトはげんこつで額を軽く打ち付ける。
「
「だろうけどな。重要器官以外全部あのぶよぶよなら、もしかしたら数日とか、ひと月とか大丈夫なのかもしれねえ」
数日ならば魔術の檻で囲って待つのもありかもしれないが、それ以上になるなら色々問題が出てくる。
「光、は」
ビヒトの呟きと同時に細い光の筋が海獣の後方部へ伸びた。
試し打ちのようで魔力はそれほど大きくない。
薄暗い中、真直ぐに進む光は術者の居場所も知らせてしまう。とはいえ、距離があるので、海獣がいくら反応して触手を伸ばしても、術者に届くことはないが。
遮るように伸ばされた触手に当たった光線は、その表面に拡散され、突き抜けた光量は半分以下になっていた。
追い打ちで数が増やされ、幾筋もの光が海獣に降り注ぐが、うるさそうに二本の触手が背を払う程度で、大きなダメージを与えているようには見えなかった。
頭側を覆う殻の部分には刺さりもしていない。
「あの表面は魔法も光も拡散しちまうのか」
「威力は半減だろうな」
小さく息をついたビヒトの目に、白い靄が映った。
海獣の向こうから、多くはないが、うっすらと白いものがちぎれた雲のように流れて見えなくなる。
霧とまでいかない、湖の表面に浮かぶ水蒸気の塊。
それが、ゆっくりと海獣の方へと吸い寄せられていた。
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