8 魔熊

 ヴァルムは小脇に抱えるようにしていたヴェルデビヒトを放るように放すと、彼を背中に庇うように一歩前に出た。懐から折り畳まれた魔法陣を数枚と、ポケットからヴェルデビヒトが魔力を籠めた石を適当にバラバラと落とす。


「どれかが防御用の陣だ。探して使え。魔力量が不安なら、あいつから目を離すな。必要な時だけ籠めろ。石を使ってもいい」


 早口で捲し立てた後は、ひとつ大きく息を吐いて剣先をびたりと大熊に据えた。

 右に左に、隙を窺いながらゆっくりと立ち位置を変える大熊に、ヴァルムは常にヴェルデビヒトを背に庇う位置を維持している。

 ヴェルデビヒトは一旦大熊から視線を外して、魔法陣を確かめ始めた。

 運よく二枚目で見知った陣を見つける。

 剣と牙か、爪がぶつかり合う音に一度身体を震わせたけれど、ヴァルムのことは信じていた。

 散らばる石もかき集めて魔法陣の上に乗せたら、ヴァルムの背中に声をかける。


「いい」


 役に立つかは判らないが、ヴァルムに貰った短剣も手にしておく。

 ヴェルデビヒトの声を聴くと、ヴァルムは前に出た。

 大ぶりの剣筋は大熊には当たらないが、ヴェルデビヒトとの距離は開いた。

 訓練場でのヴァルムは受け身が多くあまり動かなかったけれど、重たそうな身体からは感じられない、軽やかで素早い動きに目を奪われそうになる。

 ヴェルデビヒトは視線を外さずに小さく頭を振って、見るべきは大熊だと自分に言い聞かせた。


 まだ陽のある夕刻とはいえ、森の中は薄暗くなっていた。

 その中で大熊の瞳は薄く光っているようにも見える。怪しく怒りを含んでるかのようなそれは、ヴァルムに向けられていても背筋が寒くなるほどだった。

 ヴァルムの振るった剣を噛み砕く勢いで止めた大熊を、彼はそのままの勢いではらいきる。巨体は吹き飛ばされて蔦の絡まる木々にぶち当たり、メキメキと木々をなぎ倒した。


 山葡萄が散らばるのが見えて、ヴェルデビヒトはようやく自分たちが何処に移動してきたのかを悟った。

 もっと早くに気付いても良かった。今日一日離れていた気配。湖が背後にある。

 ヴァルムは手の中で剣を回しながらなぎ倒された木々の中を警戒していた。一歩、二歩と慎重に近づいたその時、ヴェルデビヒトは魔力の動くのを感じた。

 熊の咆哮が響く。


「ヴァルム! 腹!」


 声を上げた時には、もうヴァルムは後ろに飛びのいて剣を薙いでいた。

 ヴァルムの居た位置で炎の塊が真っ二つに割れて消えていく。

 続けて暗闇から飛んでくる火の玉を、ヴァルムは涼しい顔で打ち返していった。

 枯れ草にでも火が点いたのか、所々で炎が上がる。


 魔法を使ってくるなど、普通の熊ではない。思えば、あの体の大きさも。魔獣の類なのだと解ってヴェルデビヒトの心臓が音を立てだした。憲兵に知らせて、国主導で討伐を検討する案件だ。

 魔法が斬れても、炎を打ち返すなんて事が出来ても、後ろに自分が控えている限り、ヴァルムひとりには荷が重いのではないか。


「ヴァルム、人を、呼んでくる!」


 幸い、森を出れば魔術学校が近い。応援の手も期待できる。

 こんな時、救援要請アウクの光も簡単に打ち上げられない自分が情けなくなってくるが、出来ないものは仕方がない。勢いよく立ち上がったヴェルデビヒトは、次の瞬間もう一度屈みこんで、その勢いで石を幾つか叩きつけた。

 目の前で炎の塊が渦巻く水の壁に弾き飛ばされていく。


「動くな! 追われて行かれたら、対処できんかもしれん」


 胸の前に飛び出して脈打っているかのような心臓は熱いのに、背中には冷たい汗が流れていた。

 隠れて撃つ魔法がそれほど効果がないと悟ったのか、魔熊まゆうは飛び出してきた。

 正面からぶつかり合い、飛び退った先に転がっていた黒い塊を、土ごと抉ってヴァルムに叩きつける。

 土塊が不快なのか、少し顔を顰めたヴァルムは、自分と変わらぬ大きさのそれを受け止めると、即座に投げ返した。


 突っ込んできていた魔熊が忌々しそうにそれを叩き落とした次の瞬間、ヴァルムは魔熊の懐でその首を狙う。ほんの少しタイミングがずれれば、自分も叩き落されたものに巻き込まれかねなかった。だが、ヴァルムには迷いがない。

 ぼっと音を立てて二人の間に上がった炎に、ヴァルムの剣は致命傷を与えられなかった。

 もう一度距離を取る。

 自らの毛に移った炎を軽く手で撫でながら、魔熊は喉を鳴らしていた。


「……眷属だろうがよ。だから、お前はになれねぇんだ」


 低く呟くヴァルムの言葉に、黒い塊が何なのかヴェルデビヒトにも予想がついた。

 言葉を解したものか、魔熊は狂ったように雄叫びを上げる。張りつめた空気がびりびりと震え、魔熊の周りに複数の魔力反応が出た。それらはすぐに火の玉となって浮かび上がる。どれも大きくはないが、数が膨大だった。


 地面に救援要請アウクの魔法陣を描こうとしていたヴェルデビヒトの手が止まる。ヴァルムの言う通り、目を離していられる状況ではない。魔熊が自分も標的に入れているのがはっきりと感じられた。

 ヴァルムが全部避けられるのか、などとヴェルデビヒトに気にしている余裕はなかった。魔法陣に乗っている石を全部発動させて、構える。


 炎の雨はしばらく止まなかった。石で籠めた魔力の耐久値がどんどん減っていくのが分かる。


 もて。もってくれ。


 ヴェルデビヒトは祈るような気持ちだった。

 魔力を追加することはできる。だが、移動の陣に注ぎ込んだ量はかなりのものだった。おそらく、もう一度はあの陣を満たせないだろう。

 あと何回こんな攻撃が来るのか分からない。節約できるなら、しておきたかった。


 明るいオレンジ色の雨の中を二つの影が近付いては離れている。

 最後の一筋が陣の力で弾かれた時、軽い衝撃と共に守りが砕ける感覚がした。少しほっとしたと同時にこぶし大の反応が三つ、間髪入れずに放たれた。


「ビヒト!!」


 間に合わない。

 そう思った時、ヴェルデビヒトは妙に落ち着いて短剣を構えた。

 手に持つそれは、自分の一部。魔力を纏わせ、来るであろう魔力の元を探す。

 要を――叩き壊せば――

 炎が見えたのと、ヴェルデビヒトが短剣を振り抜いたのは同時だった。

 炎に入った一文字の傷は、すぐに炎を呑み込んで、火の粉を残して消えていった。


「斬れ……た」


 少し間抜けに響いたヴェルデビヒトの声は、ヴァルムにも届いたようだった。楽しそうな笑い声に、あとの二つの反応が消えていることにも気付けなかった。

 蹲っているしかない人間が、目の前の男と同じように魔法を斬ったのが気に食わなかったのか、魔熊の怒気が真直ぐにヴェルデビヒトに叩きつけられた。

 不思議と怖くなかったのは、ヴァルムと同じことが出来た高揚感だったのか、それとも、違う何かだったのか。


 ――術式を書き換えて――返してやることも――


 荒唐無稽なはずの言葉がヴェルデビヒトの頭の中に甦り、こだまする。

 だから、魔熊がヴァルムを振り切ってヴェルデビヒトに向かってきた時も、陣に魔力を籠めようなんてこれっぽっちも思わなかった。

 背を向けた魔熊にヴァルムが剣を振り被るのが見える。


 もう、お前の負けだ。

 さあ、来い。

 撃って来い。

 


 構えた短剣の先で纏わせた魔力を細く練り上げる。試しに小さく動かして確信する。書き換えられる、と。


 来る。


 その反応が大きければ大きいほど、ヴェルデビヒトの奥で期待が膨らんだ。

 もしかしたら、笑っていたかもしれない。

 術式が組み上がっていくのを感じて、それに手を突っ込む。

 正面に見える魔熊の瞳が少し怯えたような気がした。

 魔熊の魔力で描かれた術式を無理矢理上から塗り潰していく。

 もう少しで完成……そう、感じた瞬間。


 辺りを切り裂くような音と共に、細い赤紫の雷撃が、ヴェルデビヒトの持つ短剣に直撃した。




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