7 贈り物と誘惑

「なんでわかった?」


 ヴェルデビヒトは少し気まずい思いで一歩先を行く。久しぶりに重たい胃から不快感が昇ってくるのを、もらった臭い消しを口に含んで誤魔化しながら、彼はぼそりと言った。

 その辺の細い枝を折って、歯に挟まった肉をほじくりつつ、ヴァルムは鼻で笑う。


「成人目前にした男にしちゃあ、軽すぎる。食べ盛りの男なんかは、遠慮してても飯を目の前にしたら普通気になるだろうがよ。おめえさんは食べ物から目を逸らし続けてた。飲み物は摂れてるみたいだから、スープなんかの類は口にしてたんだろう?」


 ヴェルデビヒトは敢えて返事をしなかったが、その通りだった。

 食欲が落ち始めたのはひと月ほど前から。徐々に酷くなって、最近はスープの具も口にしたくない程だった。


「医者に言わせりゃあ、もっと徐々にとか乱暴だとか言われるんだろうけどよ。おめえさんには、わしらと同じやり方の方がいい気がする。理屈を考えるな。義務だと思ってさっきみたいに詰め込んどけ。最初は辛いだろうが、すぐに慣れる」


 前を行く頭が小さく頷くのを見て、ヴァルムはその頭をガシガシと掻き回した。


「そうやって、身体が安定したら試してみろ」


 ヴェルデビヒトが振り返るのと同時に、ヴァルムも足を止め、剣を抜くとその上からマントを自分の腕に巻き込むようにかけた。


「きっとこんな感じだ。わしは魔力を籠められない。だが、触れている部分には、巻きつくように纏わせられるんじゃねぇか。その魔力で術式をぶった切ってる。それが、わしが剣で魔法を切れる道理かもしれない」


 小難しいことは考えちゃぁいねえから、違うかもしれんがな。

 そう言って、彼は豪快に笑った。


「オベンキョウできるやつらは頭が固い。あれこれ制約を自分たちでつけとる。ヌシや魔獣を見ろ。奴らが詠唱しているか? 本能だけでも奴らは魔法を使う。正攻法がダメなら横道を行け。諦めるこたぁない。魔法の可能性は、もっと自由だ。ビヒト、デカい壁があるなら、ちょっと違うものに目を向けろ。その壁を登るのか、壊すのか、潜るのか、避けるのか。一見関係ないものから、あちらに続く扉が見えてくるかもしれない」


 言い終えると、ヴァルムは小振りの短剣をヴェルデビヒトに差し出した。


「まあ、わしなら壊すか……さっさと諦めるがな。この世にはもっと面白ぇことが転がってる。一つのことにいつまでも構っちゃいられねえ」


 肩を竦める様子に、ヴェルデビヒトは笑う。らしいなと。

 差し出された短剣を受け取って、彼は礼を言った。

 特別なことは何もない、何処にでもある短剣だったけれど、それはヴェルデビヒトにとって忘れられない一品になりそうだと、くすぐったい思いを噛みしめていたのに……


 「じゃあ、次」とヴァルムは間も置かずにヴェルデビヒトを小奇麗な建物に連れ込んだ。

 有無を言わせず一番美人を選んで彼を押し付けると、「また後で」と今までにない、きりっとした表情で手を上げる。

 むっちりとした美人の細腰を抱いて個室に消えていくヴァルムの姿を、ヴェルデビヒトは唖然とした表情で見送った。

 その顎に綺麗に色づけられた爪の細い指がかけられ、化粧の匂いなのか、香水の香りなのか、花のような匂いが近付いてくる。


「ボウヤ、初めて? あら。いいオトコに育ちそうね。ヴァルムったら、何処で見つけてくるのかしら」


 ふふと笑う声にも仕種にも色香を感じる。

 少し意地悪気に、わざと耳元に顔を寄せて彼女は言う。


「ロビーでヴァルムを待つ? それとも、経験しておく? あなた、わたし好みだわ」


 手を取られ、柔らかい双丘に導かれて、ヴェルデビヒトの頭の中は真っ白になった。

 結局、何だか解らないうちに彼は個室へと連れ込まれて、咽るような花の香りに包まれたのだった。



 ◇ ◆ ◇



 ヴァルムに再会した時、彼は少し艶々としているように見えた。ヴェルデビヒトはロビーで座り込んだまま、なんだかまだぼぅっとしているというのに。


「おう。食われちまったか? 良かっただろ? 余計なことは頭から吹っ飛ぶ」

「えぇ……まあ」


 軽く頭を振ったヴェルデビヒトを見て、ヴァルムは指を曲げると、その額に近付けた。

 ぴしり、と軽い音が響く。


「息抜きはいいけど、溺れんなよ。目を覚ませ」

「……勝手に連れ込んで押し付けたくせに……」


 弾かれた額をさすりながら、ヴェルデビヒトは立ち上がった。確かに少し目が覚めたのが癪に障る。


「そろそろ帰らないと。ギルドで竜馬でも借りるのか?」


 ヴァルムは少し得意気に、にやりと笑って胸を張る。


「どうせならな、なかなか経験できないことをしようじゃないか」


 その顔に微妙な不安を感じて、ヴェルデビヒトは身構えた。

 身構えたって、馬鹿力で彼は引きずられていく。店の奥へと。


「ど、どこへ?!」

「店主に空き部屋を貸してもらった。あんまり見られたくねぇからな」

「はっ!? な、何をするつもりだ!?」

「何もしねぇよ。帰るんだろ?」


 爆笑するヴァルムに顔が熱くなる。彼の行動はさっぱり読めない。

 帰るというのに、外に出るのではなく、部屋を借りるのはおかしいじゃないか。

 ヴァルムが借りたというのは小さな物置部屋のような場所だった。先程連れ込まれた2階の部屋とは違って、ベッドも机もない。積んである荷物で窓が半分潰れていて薄暗かった。

 その床にヴァルムは懐から魔法陣を取り出して広げた。何ヶ所か削られて、修正が加えられている。


「ビヒト、その右上の小さな魔法陣に魔力を流してくれ。少しでいいはずだ」


 危ないもの攻撃系ではないことを確認して、言われた通りにそこに触れ、魔力を籠める。

 魔法陣が一度光を放つと、書かれている羊皮紙自体がほんのりと光を帯びて、拡大した。一辺が両足を大きく開いたくらいになる。

 ヴァルムは上機嫌に頷いていた。


「いやあ、便利だな。ビヒト、わしと来んか?」

「は?」


 冗談交じりだったし、ヴァルムもそれ以上何も言わなかったのでそれで終わったが、ヴェルデビヒトの胸は思った以上に高鳴っていた。今日だけでも目から鱗どころか、目玉そのものが落ちそうなくらいのものを見ている。魅力的、と感じているのは自分にも誤魔化せなかった。

 広がった魔法陣の上にヴァルムが乗って、ヴェルデビヒトを手招きした。


「円からはみ出んように。二人分だとちぃっと多いかもしれんが、どうせ使ってないもんだろ? 思い切って叩き込んでくれ。なに、倒れてもちゃんと送り届けてやる」

「せめて何が起こるかくらい説明してくれ。そんなに魔力量が必要なものって……」

「優等生だろ。読み取ってみぃ」


 にやにやしているヴァルムを少し押し退けて、彼は魔法陣の中央に片膝をついて屈みこむ。パッと見はあまり見かけない魔法陣だった。飾りのような古代文字は置いといて、術式の一部を指先で確認しながら読んでいく。ついでに少しずつ魔力を籠めていくと、魔法陣がぽっ、ぽっと部分的に光りはじめた。起動の順番を目で追ってヴェルデビヒトは頬をひきつらせた。

 ヴァルムが彼を跨ぐようにして立って、その肩に手を乗せる。


「……ゲート設置、開放。転送先、確定。転送物ターゲット判別……」

「動くなよ? 円の中しかに含まれねぇからな」

「こ、これ、ちゃんと作動するんだろうな?! 人間を送る転移陣が、その辺の魔術屋で売ってる訳ない!」

「ちゃんと書き換えとるだろう。大丈夫だ。動く、気がする」


 あまりにも楽観的なヴァルムの言葉に、ヴェルデビヒトは魔法陣から手を離しそうになった。

 それを上から押さえつけ、彼の耳元で楽しそうにヴァルムは囁く。


「おっと。動くとは思うが、途中でやめた時の安全性は考慮しとらん。最後まで籠めろ」


 脅しとも取れる態度にヴェルデビヒトは圧される。

 行くも戻るも危険ならば、行くしかない。それは、理解できた。

 ヴァルムの言う通りに魔力を籠めていく。光る箇所が増えていき、やがて円全体に行き渡ると、光ったままの魔法陣が羊皮紙から浮いた。驚いて手を離してしまったが、魔力は充分行き渡ったということらしい。もうヴァルムは押さえつけては来なかった。

 

「動くなよ」


 魔法陣は光を放ったまま上昇を続け、屈みこんでいるヴェルデビヒトの頭上を越え、さらに昇っていく。動くなと言われていたのに、きらきらと光の破片をまき散らして昇っていく魔法陣から目が離せなかった。

 ヴァルムの肩、顔と飲み込まれ、頭上にまで抜けるとそこで魔法陣は上昇をやめた。口を開けてぽかんと見上げているヴェルデビヒトを、ヴァルムが可笑しそうに見下ろしている。


 これからどうなるのかと思った瞬間、魔法陣から眩しい光が降り注ぎ、部屋の景色が歪んでキィンと耳鳴りがした。耳が痛くなるほどのそれはほんの一瞬で、次にどこまでも落ちていくような、胃の浮き上がる感覚がヴェルデビヒトを襲う。

 平衡感覚を数秒失くして、倒れそうな彼の肩をヴァルムがずっと支えていた。


 こみ上げる酸っぱいものを必死に喉の奥に押し返しているうちに、頬に風を感じるようになった。床についていた手はいつの間にか土を握り込み、湿った、良く知った匂いがする、とヴェルデビヒトは思った。

 ぐらぐらする頭の感覚も戻りかけた時、頭上で舌打ちが響いた。


「坊主、動けるか」


 声とほぼ同時、何かに抱え込まれてもう一度身体が浮いた。

 うっすらと開いた瞳には黒い巨体が映る。低く唸る声に続いて目の前を鋭い爪が掠め、ひっと声が上がった。

 白刃が閃いて、黒いものと距離が出来る。


「坊主っ。ビヒト! 意識はあるか!」


 出会ってから初めて聞くような、ヴァルムの余裕のない声。嫌でも覚醒を促される。


「なん……とか」

「上等!」


 そんな余裕はないだろうに、口の端を持ち上げたヴァルムの視線の先には、彼の倍はあろうかという大熊が威嚇の声を上げながら、光る双眸で二人を睨めつけていた。




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