36 足止め
己の瞼が赤く透けるのを感じて、ビヒトは慌てて腕に顔を押し付ける。
ほんの瞬きの間だったけれども、辺りは影さえ塗り潰されるような光の洗礼を受けた。
キャン、キャウン、と、まともにそれが目に飛び込んだであろう野犬たちの声がする。
ビヒトは次の瞬間には立ち上がって、しきりに頭を振っている一団に剣を振るった。引き倒し、首を掻き切っている間に、木々の間を走って来て運よくまだ見えている個体が方向を変え、ビヒトに狙いを定めた。
一体ずつ来るのなら、ビヒトに苦労はない。軽く捌いて、もう少し開けたところまでと身を翻す。
ぼんやりと見えている犬達は本能で動く物を追いかけた。
左右の草叢から数匹が飛び出してビヒトを追う。
犬たちが足を狙えば、彼はひらりひらりと左右に避け、隙あらば斬りつけられる。腕に飛びつけば、腕輪で迎え撃たれ、
視力の回復してきた残りの犬が、何度目かの頭を振る仕種をすると、振り返ったビヒトと視線がかち合う。
唸り声ひとつあげて身を低くしたそいつに合わせるように、ビヒトも腰を落とした。
暫しの睨み合い。
ぴんと張りつめた両者の間に風が抜けていく。
どちらともなく動き出そうとした瞬間、遠吠えが辺りに響き渡った。
まだ動ける個体は、それを聞いて身を翻していく。ビヒトと睨み合っていた犬も一歩二歩と後退りしたので、逃がすものかと間を詰める。
薙いだ剣を飛んで避けて、そいつは一声吠えた。
構わず踏み込む。
斬り込まれる剣先をかすり傷程度にとどめて、そいつはビヒトの隙を窺っていた。
振り抜かれた剣と、大きく開いた喉元。
それはがあ、と吠えながら飛びかかろうとして、「ワンッ!」と鋭いひと鳴きにその身を留まらせた。
左腕を前に待ち構えていたビヒトは、ひとつ舌打ちをした。
声の主は、他のものより一回り大きい体格の茶色い犬だった。
鋭い瞳に、ぴんと立った耳。引き締まった体躯には無駄な肉は無く、ゆったりとした動きでビヒトの方へと歩いてきた。
距離をとり立ち止まると、対峙していた個体はすごすごと下がっていく。
辺りに散らばる仲間の死体を見渡しながら、彼はビヒトを見て歯を剥き、低く唸り声を上げた。
ビヒトが剣を構えると、木々の間からバラバラと犬たちが姿を現す。
「まだいやがんのか……」
思わず呟いて眉根を寄せる。
ボス自ら姿を見せたのだから、これで全部だと思いたい。
じり、とビヒトを囲むように動く集団に、ビヒトはそっと腕輪に触れてそれを発動させておく。
「ォン!」
低く吐き出された鳴き声を合図に、三匹が一斉に飛びかかった。
当たり前のように、三匹はビヒトに届く前に見えない刃に切り裂かれる。
「オン!」
間髪開けずに次の声。別の数匹が前に出た。
「なんどやっても同じだぞ」
ボスは動かずに、ただじっとビヒトを睨みつけていた。
地を蹴ってビヒトに飛びかかる……かに見えた第二陣は、ビヒトの脇をすり抜けた。そのまま、道の先へと駆けていく。
思わず振り返ったビヒトの耳に、三度目のボスの声が響いてきた。
ぐるりと周囲を囲まれる。
ビヒトが動けば、彼等も同じだけ動いた。フェイントを入れれば、一匹二匹引っかかる。けれど、すぐに彼を囲む輪は元の形を取り戻した。持久戦に持ち込もうとしているのが解って背筋が寒くなる。
「……おまえ……」
自分はいい。時間がかかっても、上手くやれば陣を描いて突破口も開けるだろう。
だが、先に走らせた奴等は何のためだ?
ボスはより狩りやすいものを知っている。ビヒトが昨日、彼女を先に逃がしたのを知っているのだ。
ギリ、と奥歯が音を立てた。
ビヒトが出来るのは、奴等が追いつく前に、マリベルが人の居る場所まで辿り着いていてくれていることを願うだけ。
荷を牽いていなければ、竜馬だけでもなんとかなったかもしれないのに。
魔法が使えていれば、駆けていく犬たちも足止めできたのに。
せめて腕輪を渡しておけば――
自分の不甲斐なさと、たかが野犬と相手を甘く見た迂闊さに怒りが湧いてくる。
時間をかけてなんていられない。ビヒトはその怒りを剣に込めた。
突っ込んで行ったって避けられるだけ。
剣先を左に流し、警戒に身を低くする野犬たちを睨みつける。
力強く一歩だけ踏み込んで、後ろに飛び退く野犬たちに届かない剣を薙いだ。
一瞬の困惑。
次の瞬間、血飛沫と悲哀の混じる鳴き声が辺りを埋める。
ビヒトが剣を振った先にいたものは、ボスを除いてみなどこかに傷を負っていた。前方にいたものは胴体を真っ二つに割られ、絶命している。
ビヒトの放った風の刃を飛び上がって避けたボスは、喉の奥で押し殺したような唸り声を上げながら、彼の手の中で音を立てて弾けた剣身を一瞥すると、その目を細めた。
ビヒトは残った柄をその場に投げ捨て、腰の後ろから短剣を手に取った。
ぐるりと振り返っただけで、犬たちに動揺が走る。数匹が狂ったように吠えながらビヒトに飛びかかった。他の数匹が身を翻したところで、ボスが声を上げる。その声にまだ従い、その場に留まれるところに、ビヒトは少し感心した。
先程までよりも間隔を開けて、再び犬たちはビヒトを囲んだ。
ボスの瞳はビヒトを挑発しているようにも見える。
もう一度やってみろ。と。
視線で残りを数える。正面に三匹。左右に二匹ずつ。
短剣一本で相手をするには、少し多い。短剣も犠牲にしてさっきと同じように魔法を放っても、次は避けられる可能性も高い。
腕輪があるとはいえ、武器がなくなるのは避けたかった。
何度か短剣を握り直すビヒトのこめかみから、汗が筋を引く。
ビヒトが次の手を決めきれない間に、野犬たちの耳が何かを捉えて木々の方を向いた。ボスが低く唸り続けている。
しばらくすると、ビヒトにも木々の中から駆けるものの足音が聞こえてきた。
犬よりも大きくて速いもの。それも、複数。
まだ援軍が来るのかと、緊張が新たになる。
地を震わせるような足音は瞬く間に迫り、木々の間からそれらは飛び出してきた。
雄叫びを上げながら、道を塞ぐ目障りな集団に襲いかかる。
野犬たちはまばらに散会したけれど、ビヒトは一頭を避けるのが精一杯だった。まともに飛びつかれたもう一頭の首と前足が飛ぶ。
爬虫類のような顔に、二本の角。獰猛な瞳に容赦はない。
手綱も、鞍もない、野生の竜馬だった。
一団から離れるように、ビヒトは飛び退く。こんな街道近くに、と焦りながらも一、二……と数え上げれば、動いているものは四頭だった。
逃げ惑いながら、野犬たちはボスを中心にどうにか反撃の形を作っている。
それでも体の大きさとスピードに翻弄されて、一匹、一匹と数を減らしていた。
この隙に、離脱するべきか。
ビヒトは瞬間迷って、いや、と思い直す。
腕輪を解除して、野犬たちを相手にしているものから少し離れて全体を眺めている個体に視線を向ける。
相手も気付いて、その視線を真っ向から受け止めた。
次の瞬間には、お互い相手に向かって真直ぐに飛び出していく。
一番強いもの。そいつを、制さねばと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます