57 不帰の森たる所以

 まだ薄明るいにもかかわらず、ヴァルムはあっという間に寝息をたて始めた。眠れるときに眠っておくというのは実に大切なことだが、ビヒトはまだ彼ほど自由に眠れない。

 初めての場所に緊張感もあるし、猿たちを相手にした興奮もまだ残っていた。食事を終えた後、どちらが先に眠るかを訊かれた時に正直に「眠れそうにない」と伝えると、彼は笑った。


「眠くなったら言え」


 そう言って横になったと思ったら、もう眠りに落ちてガーガーいびきをかいているのだから、本当に大物だ。

 誰かと組んで仕事に当たるのは苦手だと自分でも言う通り、ヴァルムは単独行動が多いらしい。ひとりの野営は常に危険と隣り合わせだろうに、山の奥、森の奥へと入り込んで行くのは、彼曰く「面白ぇこと」に出会うためだと。


 本や資料に無いこと。あってもその通りでないこと。

 そういうものがごまんとある。

 お前さんを連れていけば、遺跡もまた違う一面が見えるかもしれねぇ。

 いつかは海の向こうや、海の中にも行ってみてぇなぁ。


 海獣が危険だと話したその口でそんなことを言う。

 彼が強くあるのは、そういうものを見るためで、別に強い個体に喧嘩を吹っ掛けるためではないのだと。

 各地で出会った獣や魔獣との戦いの話を楽しそうに語るあたり「喧嘩」も嫌いなわけではないのだろうが。


 ぱちぱちと爆ぜる火の音を聞きながら、ビヒトはアレイアの方向を見やる。

 木々の奥に黒い闇が広がるだけ。それでも、その向こうに湖の姿を思い浮かべることが出来る。故郷に静かに横たわるその姿を。

 そっと、その湖に足先を浸す。広がる波紋を目で追いかけながら、ゆっくりと身を沈めていく。

 柔らかく纏わりつく水の感触は決して彼を拒絶しない。

 首まで浸って、少しの躊躇の後、全身を沈めた。

 溺れるはずなど無い。これはイメージだと言い聞かせても、不安は拭えない。


 湖では何度も泳いだが、今はただ深い方へ意識を向け、青黒い闇へと沈んで行く。

 ヴァルムの言う通りだった。あるいは、彼がそう言ったからか。深く下りていくと共にいつも感じている気配が強くなる。目を凝らしても闇しか見えない中で、それが強くなっていくのは怖かった。

 下りて下りて、やがて、つま先が何かに届く。濃密な気配が闇をいっそう濃くしているような気がして、ビヒトは一度身体を震わせた。

 闇の中、気配がぞろりと動き出す。ビヒトの位置からだいぶ先、まだ低い位置からは動き出し、ビヒトに二つのまなこを向けた。


 密度を増す気配に動けない。

 周囲の水が絡みつくように腕を足を圧迫してくる。

 息も出来ない。

 目を離すことさえ……


 見えるのは闇ばかりなのに。




 ガサリと、茂みが動いたような気がして、ビヒトは森に引き戻された。

 すでに剣に手がかかっているあたり、身体の反応は鈍くないらしい。詰めていた息をゆっくりと吐き出すと、さやさやと風の音が耳に届いた。枝か小動物が落ちたのかもしれない。

 時々、遠くから何かが窺うような気配はするが、襲ってくるような危うさは感じなかった。竜馬たちにも変化はないし、ヴァルムも目を覚ましていない。

 本当に危ない時は勝手に目が覚める。

 そう言っていたのできっと大丈夫なんだろう。


 追い出されたのか、逃げ出したのか。そもそも、あれは本当に湖の底なのか。

 ヴァルムの言葉に影響を受けているだけかもしれなくて、ビヒトは苦笑した。湖の気配にも変わりはない。

 気持ちを切り替える為に気付け用の丸薬を一粒噛み潰して、その苦さに眉を顰める。

 いつか確かめようと、密かに心に誓いながら、彼は少し小さくなった火に薪を足すのだった。



 ◇ ◆ ◇



 結局ヴァルムは勝手に起き出して、少し無駄話をしてから交代した。

 朝まで何度か目を覚ましたものの、何事もなく時は過ぎ、火の始末をするとすぐに出発する。


「しばらく行くと川にぶつかるはずだ。そこからは川沿いを上っていく」


 ヴァルムの簡単な説明に頷いて、フルグルを走らせる。前日に続いて猿を見かけたが、種類が違うのか遠巻きに様子を窺うだけで襲ってはこなかった。

 森の奥に入り込むにしたがって、方向感覚がどんどん曖昧になっていく。酷い時には真直ぐ走っているはずなのに、全く逆方向に向かっている気さえしていた。

 ビヒトは何度も遠い故郷の湖の位置を確認する。それがそこに変わらずあることに、こんなに安心させられるのは初めてだった。


「ちょっと、休むか」


 ヴァルムがベリーのなる木を見つけて方向を変える。

 酸味と甘みがピリピリしていた神経を宥めてくれて、ヴァルムがベリーの木を見つけるのが上手いのは、そういう効能があるからかもしれないと、ふと思う。

 

「疲れるだろう? 湖の位置は見失わないか?」

「ああ。自分の感覚だけだと不安になるな」

「それでもか。たぶん、陽のあるうちには川に出られると思う。今日はそこまでにしよう。ここまで迷わず来れてんだ。体力より気力を休ませてやった方がええ」


 子供のように頭を撫でられて、何かとビヒトは訝しんだ。


「疲れた顔しとる」


 ニッと笑われて、思わず顔に手を当てる。


「それが普通だ。慣れない感覚にさらされて、無理矢理元に戻すんだもんなぁ。今日は先に寝ろ」


 言うだけ言うと、ヴァルムはまたベリーを摘まみだした。

 しばらく黙々と食べ続け、ぴたりと動きを止める。

 喉にでも詰まらせたのかと声をかけようとしたビヒトに、ヴァルムは手を上げて「静かに」と示した。

 そのまま時が過ぎる。

 再びビヒトが声を発しようとした時、かさりと草を揺らす音がした。それと同時にヴァルムが飛び出していく。いつの間にか手には短剣。面食らっている間に事は終わり、満面の笑顔でヴァルムは戻ってきた。


 手にしていた兎は、予定通りに河原に出て石を集めてかまどを作り、乾燥野菜などと一緒に煮込まれてスープになった。

 隠し味にと入れたヴァルムの酒が効いたのか……あるいは、やはり慣れないことに気疲れしていたのか、身体を横たえると程無くしてビヒトは意識を手放した。


 夜中に目が覚めて、見張りを交代しようと起き出したビヒトはぎょっとする。

 火の周り、少し距離はあるが何かがいた。反射的に剣に手を伸ばす。


「心配いらねぇ。もう死んどる。見せしめに置いとるだけだから、気にすんな」


 よく見ると、確かにピクリとも動かない。死体は二体分あった。


「……気付かなかった。悪い」

「起こさねえようにしたんだ。まだ寝ててもいいぞ。わしは昨夜ゆうべゆっくり寝たからな。方向もお前さんが示してくれる。楽なもんだ」

「いや。この先何があるかわからん。休んでくれ」

「真面目だなぁ。ま、わしは遠慮しねぇが」


 ニシシと笑うと、ヴァルムはそのまま横になった。


「眠くなったらお前も寝ろ。少しくらいなら竜馬たちに任せりゃえぇ」


 クルルルと応える声がして、伏せているフルグルが片目を開けているのが分かった。


「もっと頼れってよ。添い寝もしてくれんじゃねえか?」


 ガラガラと笑うヴァルムにビヒトの肩の力が抜ける。


「……そうだな。眠気が来たら、そうする」


 結局、夜明け前の一刻ほど、ビヒトはフルグルに声をかけて座ったままうとうとしていたのだった。




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