58 森の魔獣
次の日からの行程は少し楽だった。と、言っても川を遡っている間は方向を気にしなくていい、という点においてはだが。
川沿いに上っていくと言っても、平地を悠々と流れる大河ではない。小さな段差や、ぐねぐねと曲がりくねる流れ。ともすると地に潜り込んだり、断崖に挟まれた急流になったりと、一筋縄には進めない。
おまけに日が経つにつれ、魔獣と出会う確率が高くなっていた。
縄張りに入り込んだ異物を排除するかのように、彼らは襲いかかってくる。応戦出来るときはまだいい方で、時には逃走を余儀なくされて、道を外れることもしばしばだった。
以前にヴァルムが言ったとおり、敵意を見せずに撤退すれば深追いはされなかったが、再び出会わないように川の流れを探すのは難儀した。逃げている間に方向を見失うのだ。
湖の位置は大雑把な指標にしかならない。精々が逆戻りしない程度。
それでもヴァルムの勘頼りだった調査の時よりはいいと、彼はあっけらかんと笑うのだった。
そうやって行ったり来たりと五日ほど。
進んでいるのかいないのか、景色は変わり映えしなかったけれど、ビヒトも森での生活と魔獣の対応に慣れてきていた。
先程出会った猫ほどの大きさの魔兎は額に鋭い角を持つ魔獣だ。が、大きさも力も他の魔獣に比べて弱いので苦戦することもない。時々混じるもう一回り体の大きい魔法を使える個体も、
各々が続けて三匹ほど倒したところでヴァルムがぼそりと何か呟く。
「あ? 何か、言ったか?」
「まずい、かもしれねぇ。ビヒト、道、変えるぞ」
「まずいって?」
急に踵を返したヴァルムに面食らって、ビヒトは慌てて後についた。
それまで向き合っていた茂みががさがさと揺れて、魔兎がまた姿を現すのを首だけで振り返って確認する。
「構うな。竜馬を呼べ。魔兎は個々では弱いが……」
竜馬たちはそれぞれで狩りをしていた。雑食とはいえ、肉が力になるのは言うまでもないこと。夕食の支度中など、自由にさせるのはいつものことだった。魔兎が現れた時も、呼び戻すほどではないとお互い思っていたので、どこにいるのか判らない。
ヴァルムは人差し指を口に突っ込むと甲高い音を出した。
伝達用の笛の音にも似た音は、木々の間をするりと抜けていく。
「……フルグル!!」
ビヒトの声が聞こえなくとも、フルグルならヴァルムの指笛で気付くはずだと、笛を取り出すことはしなかった。
背中に感じる、草叢から飛び出してくる魔兎の気配が増え続けている。剣を手放したくなかった。
「魔兎って、群れるんだったか?!」
「いんや。ただ、偶然や何らかの要因が重なって群れに見えることはある。そんで、そういう時、魔法の使える奴等が複数いると、使ってくる魔法の強さやレベルが上がったりする。連携してやがんだ。人は相手に合わせるのに苦労するらしいんだが」
「そうだ。連携魔術はよほど相性がいいか、魔力操作に優れた魔術師同志じゃないとできない」
「
竜馬たちの姿を捉えて、ほっとする間もなく背後で魔力が柱のように何本も立ち上がった。
ヴァルムとビヒトは同時に振り返って、瞬間だけ視線を交わす。
立ち上がった魔力がそれぞれを捻り込むように絡まって、ひとつの魔法を作り上げていった。
風が渦巻き、土や木の葉を巻き込んで上空へと吹き上げる。
それはもう『つむじ風』と呼べるほど可愛らしいものではない。細い枝なら容赦なくへし折り、太い幹には熊の爪痕のような傷がいくつも刻まれる。
剣を握り直すと、ビヒトとヴァルムは竜巻に向かってほぼ同時に駆け出す。
一振り、二振り。
ヴァルムは右から、ビヒトは左から。鏡に映る像のように、ほとんど同じタイミングで斬り込んでいく。
ついでに、飛び込んできた魔兎も振り抜いた剣に当たって裂けた。
ぐるりとビヒトの周りを回った風は、彼の髪を乱したくらいで木々の間から空へと抜けて、それきりだった。
魔兎の一団が少し怯んだ一瞬に、彼等は自分の竜馬に飛び乗って魔兎を蹴散らすように駆け抜ける。
しばらく森の中を全速力で駆けてから、二人は後ろを振り返った。もう何も追ってこないのを確認すると、ようやく息をつく。
「あれはひとりじゃ斬れんかった。お前さんが斬れるようになっとって良かったわ」
「やっといて何だが、割と賭けだったぞ。連携だと斬らなきゃいけない部分が複数になるのもだが……片方だけ斬ってもバランスが崩れて力が暴走しかねない」
「だな。一人んときゃあ……無理はしねぇこった」
頷きながらビヒトは辺りを見渡す。すでに水音は聞こえない。
「さて、川はどっちか……」
常に川の東側を辿っていたので、湖の位置を確認して西側に進路を取れば辿り着けるはずだが、魔兎の群れにまた行き当たるのも馬鹿らしい。結局、しばらく北に進んでから西へと戻ることにした。
静かな森の中を北へと駆ける。
水を確保する意味でも川沿いへは早く戻りたい。ビヒトは方向を誤らないようにと、それだけに集中していた。
半刻ほど進んで、そろそろ西へと進路を変えようかと足を緩めると、横に並んだヴァルムが「ビヒト」と手を添えて止まるよう促した。
「気のせいかとも思ったんだが……ちぃと静かすぎる」
言われて、耳を澄ませてみるが、確かに風が木々を揺らす音くらいしか聞こえない。小動物や昆虫の気配も消えてしまったかのようで少々不気味だった。
「……さっきの魔兎もこっちから移動してたの、か?」
「まぁ、だいぶ奥まで来ているはずだから、心当たりがないわけじゃあねえんだが……少し、ゆっくり進もう」
今度は前に出たヴァルムにビヒトは大人しくついて行く。
ゆっくりと進んで行くと、辺りの静けさがより強く感じられた。鳥の声も虫の声もしない。竜馬の草を踏む音さえも遠慮がちに聞こえる。
警戒して首を巡らせていたビヒトは、ふとヴァルムの気配も消えたことに気付いた。まさかと視線を前に戻しても、ヴァルムの姿はそこに無い。
「ヴァルム?」
それほど離れている訳がないと、ビヒトは呼びかける。
が、返事は返ってこなかった。
先を見に行ったのかと、ゆっくりとしたペースを保ちながら進んで行くと、突然フルグルが歩みを止めた。バランスを崩しかけて、ビヒトはその身体に軽く手をつく。
「おっ……と……?」
次の瞬間、後ろに飛び退いたフルグルの目の前を、白いものが横切った。
体勢を立て直しながら、ビヒトはそれを目で追う。
白い体躯に薄いグレーの丸い斑紋。竜馬よりは小さいが、犬猫よりははるかに大きい、ハテックと呼ばれる肉食獣だった。
唸り声を上げながら振り返る顔の中央に一文字の傷、さらに額にコイン程度の緑の石を見つけて、ビヒトの緊張は一層増した。
一応剣に手はかけたものの、逃げた方がいいだろうかと迷う。ヴァルムと今以上離れるのは、あまり歓迎されたことじゃない。
そんなビヒトの心中を察した訳じゃないのだろうが、魔豹はビヒトの顔を見て一瞬首を傾げたような気がした。
妙な間が出来て動けなくなる。
しばらく睨み合っていたものの、ハテックはふい、と視線を逸らして辺りを窺い始めた。
相手にされていない?
少し拍子抜けして、ビヒトがゆっくりと下がろうとすると、シャーっとハテックから一喝された。動きを止めると、ゆっくりと近づいてきたハテックがフンフンと確かめるように匂いを嗅ぎまわる。フルグルが抗議するように声を上げても、お構いなしだった。
一通り嗅ぎ終わって目を細めると、ハテックはぐるりと辺りを見渡してからフルグルの上に飛び乗った。ビヒトの両肩に手をかけ、味見するようにその耳元をべろりと舐めてから大口を開ける。
「……まったく」
溜息まじりの声と共に、竜馬が飛びかかってきた。
ハテックはすでに飛び降りていて、降りた先でヴァルムの剣に噛みついていた。
「ビヒトだけなら見逃すかと思ったが……甘かったな。そういう小知恵はどこで身に着けるんだ?」
剣を噛んだまま鳴らす喉の音が嬉しそうにも聞こえて、ビヒトは対峙する二体を呆然と見下ろしていた。
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