106 ヴァルムの思惑

 ビヒトも青くなりながら、テリエルの呼吸を確かめる。意識はないが、まだ脈もしっかりしているのを確認すると、ヴァルムが自分にしたように試験管の水を彼女に飲ませた。


「カエルレウムは」


 しゃくりあげながら首を振るけれど、おそらく良くはないのだろう。

 すぐにヴァルムへ連絡する。返事は待たずに(結局こなかったが)上着を脱いでカエルレウムを包み、両脇に一人ずつ抱えて家へと戻った。

 アレッタを呼び、テリエルの部屋で彼女の着替えをお願いする。その間にカエルレウムを着替えさせ、ベッドに横たえると、濡れた紺色の瞳が見上げてきた。


「……リ……リエ…………エル、は……」

「大丈夫だ。気を失ってるだけ」

「ほ……ほん……と?」

「ああ。もう少し落ち着いたら、何があったのか聞きに来る。少し寝ていろ」


 頭を撫でようとしたビヒトの手を、カエルレウムはビクリと避けた。

 一瞬の気まずい間の後、すぐに何でもないことのように布団を引き上げ、その胸をぽんぽんと叩く。

 廊下に出てドアを閉じると、全身が細かく震えだした。

 しっかりしろと自分を叱咤して、ビヒトはテリエルの部屋に向かう。


「アレッタ、ありがとう。今日はもう帰っていいですよ。みんなにも、そう伝えて下さい」

「ビヒトさん。お嬢様は……」

「山で遊んでいて、頭をぶつけたのかもしれません。私も少し離れていたもので……坊ちゃまが後で話してくれるはずです。ヴァルム様にも連絡しました」

「坊ちゃまは……」

「ショックで体調も引きずられたみたいです。熱を出すかもしれませんが……いつもより少し時期が早いだけですよ。私が見てますので」


 心配そうな顔のまま、アレッタは頭を下げて出ていった。

 色々妙だとは思いつつも、アレッタはカエルレウムもテリエルも慈しんでくれる。そこにビヒトは感謝していた。




 夕方になって二人とも熱が上がり始め、呼吸が荒くなる。それでも息をしている音が聞こえるだけ良かった。カエルレウムに話を聞きたくとも、ビヒトはテリエルの呼吸が止まったらと心配で、長くは離れられない。

 日が落ちてから汗を拭きにいき、水で絞った額のタオルを取り換えただけでカエルレウムの部屋から引き返すと、本館への渡り廊下からヴァルムが顔を出した。

 ぼさぼさの髪には枝や葉が絡みつき、服はあちこち破けている。ぎょろりとした目玉に見据えられ、怒鳴られるのではないかとビヒトは腹に力を籠めた。


「テリエルは」


 耳に届いたのは静かな声だった。


「……まだ起きない。すまない。俺が、ついていたのに……」

「坊主は?」

「熱はあるが、テリエルよりはいい。気持ちの方が弱ってる」

「だろうな」


 ほぅ、と、息をついて、ヴァルムはビヒトの肩を叩いた。


「いつかやると思っとった。想定より早かったがな。アレは飲ませたんだろう?」


 眉を寄せながら頷くビヒトに、ヴァルムは口の端を持ち上げた。


「で、何があった?」

「聞けてない。テリエルについていたから」

「そうか。着替えたらわしが見る。坊主に聞いて来い」

「わかった……船できたんじゃ、ないよな?」

「ああ。山を越えてきた。ヌシに叱られるかとひやひやしたわ。ま、邪魔されたらぶっ飛ばしたがな」


 髪に刺さる小枝をビヒトがつまみ上げると、ヴァルムはカラカラと笑った。

 もう一度戻ったビヒトに、カエルレウムが少し首を傾げる。


「ヴァルムが戻ってきた。少し辛いだろうが、何があったか、聞かせてもらえるか?」


 カエルレウムがすぐ飲めるように水差しから水を汲んでおいて、ビヒトはベッドの横に腰を下ろした。


「……爺ちゃん、怒ってた?」

「いいや。俺も怒られるかと思ったんだが……笑ってた」


 そう、とお互い微妙な表情で見つめ合うと、少し可笑しくなった。


「爺ちゃんだしね。……あのね、リエルが、巣から落ちた雛を見つけたんだ。ピーピー鳴いてて、戻してあげなくちゃって」


 傍に落ちていた死骸を思い出して、ビヒトは頷く。


「拾ったはいいけど、持ったままじゃ木に登れないのを思い出したんだ。俺に『持ってて』って渡してきた。でも……手袋、してなかったから……雛は死んじゃったんだ。手の中で、あっという間に……」


 また流れた涙をカエルレウムはぐいと拭った。


「俺が殺したんだと思ったら、気持ち悪くなって、眩暈がして、立っていられなくなってビヒトを呼んだけど、そこまでしか覚えてない。次に目を開けたら、リエルが俺の手を握って倒れてたんだ。両方の手で、手袋を外して! 何でそうしたのか分からない。駄目だって言ってたのに。小鳥と同じようになっちゃったと思って、怖くて、必死に手は外したんだけど、リエルは動かなくて……」


 今度こそ、ビヒトは紺色の髪をかき混ぜた。執事用の白い手袋をはめていたから、遠慮なく。


「わかった。大丈夫だから。今、カエルレウムと同じように熱があるけど、熱いということはまだ生きてるってことだ。目を覚ましたらちゃんと教えるから、カエルレウムも安心して休め」

「……リエル、帰っちゃうよね……」

「さあ……どうかな」

「帰った方が、いいよ」

「二人とも元気になったら話し合おう」


 ゆっくりと、少年は頷いた。



 ◇ ◆ ◇



 翌朝、朝一の鐘が鳴る頃、テリエルは目を覚ました。

 まだ起き上がるのは無理だったけれど、山は越えたと一通り話を付けたヴァルムが食堂へ食べ物を求めてやってきた。


「まったく、女っちゅうのは恐ぇなあ」

「女?」

「よく言うとっただろう? 坊主の嫁になるって」

「ああ。ままごと遊びでか」


 ヴァルムはにやりと笑う。


「遊びと思うとると、痛い目にあうぞ。今回みたいに。テリエルは本気だからな。駄目だと言っておったのに、聞きゃあしねえ」


 ビヒトは何度か目をしばたいた。


「だから、子供でも女は恐いんだ。思い込んだら周りへの影響を考えずに突っ走りよる。まあ、年頃になってからでなくて良かったかもしれん。アレは襲う・・タイプだ」

「まさか」

「変なところで母親の血が出とるな。わしらはそこまでがっつかん。欲しいものや目的のためになりふり構わないのは、向こうの血だろう。さすがにそこまで深く繋がられれば、生きてはおれんだろうからな……」


 セルヴァティオが酒の勢いから子供が出来ることになったとは聞いていたが、まさか。

 ビヒトは目を泳がせる。


「お。言ってなかったか? 先が決まっていない男を年頃の娘が待つのはよろしくないと、あちらの実家が別の縁談を捻じ込もうとしたんだ。酒と、もしかしたら薬も、盛ったのは彼女だ」


 まあ、それはおいといて、とビヒトの淹れた濃いめの茶をのどに流し込む。


「いい機会だから、ここでがっちり締めておきたい。例の水はまだあるし、満月もくるが、敢えてテリエルにはやらん。簡単に治せるものだと思わせたくない。坊主にも会わせん。その上で、取り引きを持ち掛けようと思う」


 初めから、想定していた事態だというように、ヴァルムはするすると言葉を進める。

 いや。本当に想定していたのだろう。急いで帰っては来たが、焦ってはいなかった。


「テリエルを帰さないのか?」

「帰れと言っても聞かん。ここで離せば変に意地になって、それこそ成人と共に押しかけかねん。さすがにあちらには本当のことは言えんから、多少後ろめたいが、先の安全を第一にするなら……そして、坊主の気持ちを少しでも軽くしたいなら、テリエルは帰せん」

「どう、すると」


 ヴァルムは、ずいとビヒトに頭を寄せて、いたずらを思い付いた少年のような顔をした。


「坊主に紋を刻む。まず両腕に。足りていれば何からももらわなくてすむように」

「いきなり、無理な話じゃないか! 何を吸い上げているのか、誰も分かってないんだぞ!」

「だな。だが、遺跡から見つかった物の中に、アレを測れる物がある。原理はわしには解らないが、お前さんは仕込まれた魔法陣を読めるだろう?」

「測れる?」

「いつもの水と満月時の水で振れ幅が違う。そうとしか思えない。血液や唾液で坊主の体調も管理できるかもしれない」

「いつ、そんなものを……」

「持ってたのはずっと持ってた。目盛りと針がついとったからな。たまに酒とか測ってみてたんだが、いつも微妙に動くか動かないかくらい。いっても目盛り半分くれえだった。それが、あの満月の日の水は四分の一近くまで針が振れる」

「遥か昔に、使われていたっていうのか……?」

「そうなんだろう。ビヒト。あの月は、あれは、お前の国でんだという、その星だったりしてなぁ」


 ヴァルムの言葉に、ビヒトは雷に打たれたような衝撃を受けた。




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