第二章 赤い石の耳飾りのビヒト

11 懐かしき雷鳴

 生活に慣れるのに数ヶ月。安定した金を手にすることが出来るようになるまでに数年。居心地が良かったせいもあるが、気が付けばビヒトは二十歳になっていた。

 もう新人とは誰も言わなくなり、時々助太刀も頼まれたりするようになった。

 腕を買われるだけでなく、魔法陣を使った罠などをその場で展開できるので、サポートとしても重宝がられたのだ。

 お陰で魔術からもそれほど離れないですんでいた。


 ビヒトが冒険者を選んだのは魔術から離れたかった訳じゃなく、魔獣の使うような純粋な魔術を身近で感じたかったのと、どこかでヴァルムに会えるかもしれないと期待したからだった。

 生憎、あれからヴァルムはこの街に一度も立ち寄らなかったし、ビヒトが魔法を使うような魔獣に遭遇することもなかったが。

 すっかり顔なじみになってしまった娼館で、天井を見つめながらぼんやりしていると、色付いた爪の先がビヒトの額を軽く弾いた。


「ちょっと。部屋を出るまでは他の女のこと考えないでくれる?」

「考えてない……」


 言いながら、ビヒトは喉の奥で少し笑った。


「何?」

「いや、初めてここに来た時、ヴァルムにも額を弾かれたなと思い出して」

「ヴァルムの事考えてたの? もう。こんなイイオトコに育てたのに、いつまでもこちらを見てくれないんだから」


 細い指がビヒトの顔を包み込むと、そのままぎゅうと押し潰した。


「見てほしかったのか?」

「あら。見る気があるの?」

「いや。そろそろ街を移ろうかと思ってる」

「……ふぅん。じゃあ、記念にこれ頂戴?」


 頬から手を移動させて、つとビヒトの耳をなぞり、女は赤い石をつんつんとつつく。


「嫌だ。それは俺がヴァルムにもらったもんだ」

「なによ。あの筋肉馬鹿のほうがいいっての?」

「とりあえず、一度再会するまでは、売る気も譲る気もない」

「やあねぇ。男っぽくなっちゃって。ヴァルムに泣かされた娘も多いけど、あなたも同類ね」

「俺はあんたしか買ってないだろう?」

「そうね。名前も憶えてくれないし、もう出て行くって言うし。下手するとヴァルムより性質たち悪いかしら」


 ビヒトが言葉に詰まると、女は数年前と変わらぬ艶めかしい笑顔を浮かべた。

 ふわりと花の香りが近付く。


「でも、そういうところ、あなた、わたし好みだわ。本当、小憎らしい」

「……ありがとう、と言えばいいのかな」

「愛してるって言うのよ。ボウヤ」


 女はもう一度、勢いよくビヒトの額を指で弾くのだった。




 ビヒトは花の匂いのする女に赤い宝石のピアスを贈って、ワガティオの街を出た。

 竜馬を駆って西へと向かい、森へ入り込んでから彼をつけている人物を待ち伏せる。

 木々に阻まれる視界をなんとか確保しようと伸ばす男の頸へと、後ろからナイフを当てた。


「いつまで報告を続けろと言われてるんです? 俺はこのまま帝国まで行くつもりだと、あなたのあるじにそうお伝えください。ついでに、心配無用ですので、見張りはもういりません、と」

「そ、そういうわけには……せめて、アレイアにお入りになるのですから、一度家にお立ち寄りください!」

「帰る訳じゃない。通るだけだ。このまま、あちらの国へ真直ぐ入る」

「ですがっ……ヴェルデビヒト様!」

「今はただのビヒトだ。そこそこの冒険者の。報告したんだろ?」


 ビヒトにとって、すでにその名前は遠い響きしかない。


「リリエ様が……それ程遠くにいる訳ではないのに、なぜ一度も帰らないのかとお嘆きです。本当に、顔を見せるだけでも……!」

「数年は国の近くにいろと言うから居たじゃないか。これ以上は恥ずかしいだけだ。あまり煩いなら、ヴェルデビヒトは死んだと報告すればいい」


 ビヒトはナイフを引くと、そのナイフを、伸ばしっぱなしでひとつに括っていた自分の髪の根元に当てて一息に切り落とした。

 それを見張りの男に押し付けて、おとなしく待っていた竜馬の口にポケットから木の実を出して入れてやる。


「そんな報告は……」


 唇を噛みしめる男に多少の同情を感じる。もしかして、ヴァルムに煙に巻かれたのも彼かもしれない。


「……帝国から戻ってくる頃には、帰る気になるかもしれない。先のことなど、判らないがな」


 それ以上は平行線になりそうだったので、ビヒトは竜馬に跨ると後も見ずに駆け出した。

 風でなぶられ、不揃いになった髪が頬にかかって邪魔だった。

 昔ヴァルムが言ったように、湖周辺には魔獣が少ない。魔獣退治の依頼は山の方かアレイアとは反対側の国境に集中していた。

 それもあって、ビヒトが湖に近付くのは久しぶりだった。

 年数がたっても近付く気配は変わっていない。懐かしい感覚に彼は思わず湖の見える方へと進路をとる。

 静かな湖面に竜馬の足を緩め、しばらくそれを眺めながら、ゆっくりと歩いた。


 この辺りの川や、もう少し東の方にある小さな湖にはそんな感覚は感じなかった。

 この湖が特別なのだと、さすがにビヒトも解っている。毎朝の雷の音はワガティオの街では聞こえなかったが、遠いからなのか、国が違うからなのか、確かめたことはない。

 鐘の音しか聞こえない朝に、しばらく慣れなかったなと思い出して、ビヒトは小さく笑った。それから意識を切り替える。


 もう迷わずに真直ぐ西を目指したビヒトは、国境を越える寸前、毎朝聞こえていたそれよりは随分控えめな雷の音を聞いた。



 ◇ ◆ ◇



 アレイアを出てしまうと、ビヒトは特に急ぐこともなく、立ち寄った街々で簡単な依頼をこなしながら西へと進んだ。

 見た顔に会うこともあったし、余所者に冷たい街もあった。

 ビヒトは比較的素行の良い冒険者だったけれど(それが冒険者たちの中には鼻につく者もいるのか、絡まれることもあったのだが)売られた喧嘩も買わないような可愛い性格はしていなかった。

 その日も、きっかけはビヒトの耳飾りに目をつけた酔っ払いだった。


「よぅ。にーちゃん。いい飾り、つけてんな。最近流行ってるんだって? 赤い石の耳飾り」

「そうなのか?」

「にーちゃんも聞いたんだろ? なんだか強い冒険者が――強い奴の弟子が? だったか? 赤い耳飾りしてるんだとよ。みんな、それにあやかろうとしてんのさ。馬鹿みたいに女が釣れるってよ」

「そういう使い方はしたことがないな」


 にこりともしないビヒトの態度に、酔っ払いはフンとひとつ鼻を鳴らす。


「なんだよ。俺は耳飾りがなくてもモテるって言いやがんのか? じゃあ、おまえさんはなんでそれをつけてるんだよ」

「もらったヤツに次に会った時にわかりやすいように」

「女か」

「男だ」

「男色かよ!」


 ゲラゲラと酔っ払いは下品に笑う。


「そんなんじゃない。世話になった人だ」

「わかったわかった。俺も世話するやつを紹介してやるから、紹介料でその耳飾りをくれよ。金持ちだから、もっとデカいのも買ってくれるさ」


 ビヒトは耳元に差し出される手を避けながら、耳を庇うように手で包み込み、ついでに石に魔力を少し注ぎ込んでおいた。


「ことわ――」

「ジェラルド!」


 ビヒトの後ろで飲んでいた人物が、ぬっと立ち上がった。ヴァルムほどではないが、筋肉で服が持ち上がっている。

 目が合った瞬間、ビヒトの背筋に悪寒が走った。服の下の地肌を舐めるような視線。ゆっくりと唇を這う舌の動き。何より欲望にぎらつく目が気持ち悪かった。


「ジェラルド、その手を握ってやれ。世話してほしいってよ」


 筋肉男の唇が歪む。

 近づく手を空いている手で払いのけようとして、その手も掴まれそうになって慌てて引込める。その間に左耳に被せていた腕を掴まれて、耳から引き離された。

 じりじりと、覆い被さるように近付く男の身体を押し返そうとしているうちに、酔っ払い男の動きに反応が遅れた。

 乱暴に耳飾りをむしり取られ、にやつく顔に舌打ちが出る。


「返せ!」

「なんだよ。近くで見ると、もっと高そうだな? ジェラルド、新しいのをプレゼントしてやれよ?」


 少し頬を染めて頷く筋肉男に、反射的に足が出た。

 他の客のテーブルに巨体がなだれ落ちるのを見届けもせず、立ち上がって酔っ払い男に手を伸ばす。

 相手も立ち上がってそれを避け、出口に身体を向けようとした。

 小さな悲鳴と悪態が周囲から聞こえてくる。

 背後では筋肉男が立ち上がる気配。

 ビヒトは腹の底からドスの効いた声を響かせた。


「か え せ」




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