103 青い月
薄い毛布にカエルレウムを包んで運ぶ。
厳重に閉じられたドアの向こうは、手掘りで掘られたような狭い洞窟へと続き、やがて広いスペースのあるところへと出た。地下の雰囲気もあるのだが、天井に穴があるのか、そこから薄青い光が差し込んでいる。
手前側に木造の簡素な建物があり、一旦そこへとカエルレウムを運び込む。簡易ベッドに寝かせると、沐浴着だというものに着替えさせた。
「……変わった形だな」
肌が透けない程度の厚さで、前開きの短い羽織の内と外に縛るための紐がついている。左側が上に来るように襟元を交差させて、袖は広めでやや短い。下は同じ素材の膝丈のズボンだった。
「意外と着替えさせやすい。坊主の家系に伝わってるものだそうだ」
カエルレウムを抱えて再び外に出る。
思っていたよりも大きな湖が横たわり、湖面に下りられるように岸に平行に階段が作られていた。
湖の半ば辺りに円形の岩が突き出していて、そのまま視線を上げれば、ぽっかりと穴が開いているのが見える。ちょうど円形に天井が落ちたかのようだった。木の枝の影が黒く揺れて見えるので、外へ続いているのだろう。
その穴に、青い月が昇っていた。
真っ青ではなく、所々に白いまだらのある、奇妙な月だった。
薄青い光は湖面に吸い込まれるように落ちて、水と空気を染めている。
カエルレウムも一緒になって月を見上げていた。光に当たると、心なしか苦しそうだった呼吸が落ち着いてくる。
とんとんと胸を叩かれ、ビヒトは彼を階段へと下ろした。
慣れているのだろう。そのまま水へと下りていき、腰の辺りまで水に浸かると、ゆっくりと泳ぎ出した。
あんなにぐったりとして熱のあった身体で、との心配をよそに、しばらく頭を上げて泳いでいたカエルレウムは、突然とぷんと水の中に消えた。
驚き、足を踏み出しかけるビヒトを「大丈夫だ」とヴァルムが止める。
小さな泡がいくつか上がり、飛沫を上げながら頭を出したカエルレウムは、一度頭を振ると、にっこりと笑ってビヒトに手を振った。
「一刻ほどは出て来ねぇ。まあ、ゆっくり待とうや」
ヴァルムは階段に腰を下ろすと、何処からか酒とつまみを取り出して一杯やり始める。
「あんなにはっきり見えるなんて、この村の人間は何とも思わないのか?」
天井を仰ぎ見たビヒトに、ヴァルムは意味ありげに笑った。
「外は山ン中だが、気になるなら行ってみればええ」
行け、と言われて、ヴァルムと月を見比べる。常人では無理のある高さだ。
「最近、サボってたからな……」
「じゃあ、いい足慣らしだ」
その場で屈伸をして、階段上まで戻る。助走を付けてまず中央の岩まで跳ぶと、カエルレウムが驚いて見上げていた。
屈みこみ、足の筋肉を強化していく。
跳び上がり、穴の壁面を二度蹴りつけて、どうにか上まで手が届いた。
身体を押し上げて、一度周囲を確認する。いくつか木の生えた岩場で、広さはあるが、ちょうどへこんだ場所なのか山肌ばかりで景色は見えなかった。
満月の、夜にしては明るい淡い光は、けれど青くは感じられない。
確かめるように見上げると、そこにあるのはいつも見ている少し茶色い普通の月だった。
角度が悪いのかと、あちこち移動してみるも、どこにも青い月は見えない。
混乱しながら、また穴の中へと飛び降りる。
地底湖の周囲はやはり薄青く、岩に着地して振り返ると、煌々と青い月が照り付けていた。
「ど……」
ビヒトはヴァルムの元に文字通り飛んで戻り、持っていた酒をひったくってのどに流し込むと、答えはないと解っていながら、月を指差して詰め寄る。
「どういうことだ!?」
「さあな。わしも何度も確かめたが、アレはここでしか見えん。伝説が、伝説としてしか残っていないのも頷ける」
「ま、満月以外の日は?」
「普通の月なら見える」
「つまり……」
「月に一度、満月の日にしか現れない。面白えだろ?」
ヴァルムはどこからかもう一本酒を取り出すと、ぐいと傾けた。
「伝説で、タマハミが満月の夜に現れるというのは、その光を求めるからなのか……」
「……おそらくな」
ヴァルムもビヒトも水と戯れるカエルレウムへと視線を流す。
「だが、光だけでは効率が悪いらしい。ああして水に溶けた分を吸収するのも時間がかかる。そうしてもひと月過ごすのがギリギリだ」
「人や動物を襲えば、効率はいいのか?」
ヴァルムは首を振った。
「坊主の母が死んだ時も、祖母が死んだ時も、坊主の容体は良くならなかったそうだ。人から奪っても、その代償に見合わない。ここに、この広さの湖があるのはある意味奇跡だ」
「祖母って、ヴァルムに託したという?」
「ああ、違う。わしに託したのは、その祖母の姉。ここで祭祀をしていた最後の巫女だ。彼女が古い書物から対処法や注意事項を掘り返してきた」
「巫女……ということは、タマハミを鎮める、とか、そういう関係なのか……?」
「よく分からん。ただ、彼女達の一族は昔からそういう体質の者を出していたようだ。それも、ここ百年、二百年単位で見られなかったようだが。皆、忘れていた。だから、対処が遅れた」
「その巫女が死んだのも……」
「いや。彼女は寿命だ。ここに居れば、人は襲わなくて済む。一人で生きていけるようになる術を叩きこむまででいいから、と言われれば断れなかった」
ひと月過ごしたビヒトにも分かる。カエルレウムはごく普通の子供なのだ。手袋をしていてでさえ、他人に触れるのを遠慮するような、優しい。
人のぬくもりが恋しい時期に、どれだけの我慢を重ねて、ままならぬ身体を憂いているのか。
自分ではどうしようもないことをどうにかしたくてもがく苦しみ。
カエルレウムの願いは、ビヒトに比べてもあまりにもささやかで。
「出ていく気になったか?」
意地の悪い笑みは、もうビヒトの答えを知っている。
「くそ。俺に嫁も貰わせないつもりか」
「嫁をとる気があったのかよ。別に、いくらでも探しゃいい」
豪快な笑い声が、洞窟内に響いた。
冷え切ったカエルレウムだったが、表情は明るくなっていた。
また毛布に抱えて離れまで戻り、別の扉から岩風呂へと出て同じ沐浴着を着、みんなで浸かった。
頬に赤みがさすと、カエルレウムはすっかり元気に見えた。
「もう、大丈夫なのか?」
「うん。ビヒト、すごいね。羽が生えてるみたいだった」
少し距離をとっているものの、声は弾んでいる。
「……もう、行っちゃう? また来る?」
初めて会った時の会話を覚えていたのか、遠慮がちに聞かれる。ヴァルムはタオルを頭に乗せてにやにやと笑っていた。
「もう、しばらくいる。……いてもいいか?」
ぱっとカエルレウムはとろけるような笑顔を見せた。
「ほんと?! じゃあ、えっと、教えてほしいことがあるんだけど」
「ああ。ゆっくりな。熱が下がったか、ちゃんと確認して、今日はゆっくり寝ること」
「うん!」
勢いで、お湯の中にもカエルレウムは潜っていった。
すぐに飛び出したその顔に、ヴァルムが手を組み合わせてお湯を飛ばす。
楽しげな笑い声が、夜空に吸い込まれていった。
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