96 失われたはずの魔法

 背後で魔術式が立ち上がり、あっという間に発動される。

 顔の横を通り過ぎたのは真空魔術ワクウムだった。

 それが水球を切り裂くのと、ビヒトが誰かに受け止められたのはほぼ同時だった。

 それが誰か確認するのも、礼を言うのも置いておいて、ビヒトは全身をその人物に預けたまま、水球から飛び出してきた水の刃アクアラーミナに向き合う。

 悲鳴のような声が上がった気もしたけれど、目の前に迫るものに集中していて気にかける余裕はない。

 自分を抱える人物に動くなよと心の中でだけ懇願して、短剣を振った。

 ビヒトを抱えている人物は思いのほか落ち着いていて、方向性を持っていた魔力が霧散していくのを見ながら、少しだけビヒトを抱える手に力を籠める。


「ありがとう。助かった。もう離しても……」


 振り返ろうとして、紫色のローブが目に入り、香の匂いのような覚えのある香りが鼻をついて、ビヒトは身を固くする。

 どこかで参謀だと思っていたので、動揺は激しかった。

 言葉を失っている間に、抱えられたまま急上昇される。足の下を水球が通り過ぎていって、少しだけ冷静さを取り戻した。


「離してください。俺が狙われてるんです」


 聞こえていないかのように、ヴァイスハイトは口の中で何か呟いた。

 魔術式を読み取るより先に頬を緩く風が撫でて、風魔法だということは解る。風の盾パリエースかと思いかけて、籠められた魔力の量からもっと軽いものだと眉を顰めた。

 すぐに続けて風の盾パリエースも発動される。


「カンターメン殿……?」


 後ろから抱きとめた格好のまま、ぐいとビヒトを抱え直して、二人の頭の距離が近付く。ヴァイスハイトの呼気がビヒトの耳をくすぐった。


「『――天と地を繋ぐ光の帯。ふるあるじの纏いたる、深淵の衣を飾る閃光の一端を我が手に。穿つのは天か地か。無二の力を知らしめよ。我が前にあるもの逃れること能わずフルメン』」


 途中から、父の声と夢の女の声が重なって聞こえた。

 夢の中では聞こえないと思っていたのに、すでにビヒトはそれを識っている。欠けたピースがピタリとはまったかのように、ひとつの呪文だけで唐突に全体を理解した。

 と、同時に、目の前の景色に陽炎のように重なる線や文字が浮かぶ。焦点を合わせると見えなくなり、何も見ずにいようとすると浮かんでくる。それは、アレイアをすっぽりと包みこんでいる巨大な魔法陣の一部に違いない。

 バクバクと身体の内側から心臓がノックする。呼吸が浅く速くなるビヒトに、ヴァイスハイトの声は続いた。


「見えたな? あの時も見えたのだろうが」


 ヴィッツや他の魔術師がヴァイスハイトの前へ出ようと動き出す。同時に氷の盾パリエース・ゲローの展開が始まった。

 ビヒトは無理矢理首を傾けてヴァイスハイトを仰ぎ見る。


「何故……」


 何故、今。

 ふっと、ヴァイスハイトは自嘲気味に笑った。


「……無駄に大きくなりおって。さあ、鍵は渡した。どうする?」

「……父上……」


 呟きが漏れ、しまったと口を閉じる。けれどそこで、最初の魔法は防音の魔術だったのだと気が付いた。

 続けて展開された風の盾に隠され、周りは誰も気付いていない。

 ビヒトを捉えていた父の瞳が、前方へと移された。


「離せと言ったな」


 言葉と同時に、ヴァイスハイトの手はビヒトを支えるのを止める。

 ヴィッツの展開した氷の盾は、触れる物を凍りつかせる。発動まで少し時間がかかるのと、勢いはそれ程削げないのが難点だが、続けざまに撃たれる刃を内包した水の球への対処としては、ベストかもしれない。

 迫りくる氷の塊を魔術師たちが打ち砕くのを、ビヒトは落下しながら見守っていた。


 地に着く直前、風がビヒトを持ち上げる。

 ビヒトが離せと言ったのも、ヴァイスハイトが躊躇いなく手を離したのも、常に誰かのサポートがあると知ってのことだ。

 地に足をつけ、移動しながら考える。

 魔法陣が何を目的とした物かは依然として分からない。海獣にも反応する様子はない。ならば、今はそちらに煩わされている時ではない。


 ――どうする?


 ヴァイスハイトの問いかけは、ビヒトが使と仮定した上でのこと。

 使えるならば、迷わない。

 迷うとすれば――魔力量。

 陣に注いだ分が回復していない。制御を考えると、残りでは確実にとどめが刺せるか分からない。

 握った短剣に視線を落とす。

 ビヒトが魔法を使うのなら、制限もある。この短剣でも使えるのは二回。失ってもいいのなら、三回。出来れば確実に一度で仕留めたかった。

 ピタリとビヒトを追い続ける砲台も何とかしたいところ。時間が経つほどに、連続で撃てる水球の数は多くなる。

 ひとつを避け、ひとつを弾き、近づけば複数個が飛んでくる。

 触手は魔術師たちに破壊されないようにと、砲台を守るのに専念していた。


 風の魔法で少しずつ傷を増やしている海獣の背を見て、ビヒトはいけるだろうと心を決める。

 大回りからストレートに海獣へと足を向けた時、一際大きな叫び声が一帯を震わせた。

 思わず足を緩め、ビヒトは様子を窺う。

 触手が前方へと伸び、弾かれてはまた向かい、徐々にビヒトの方へと場所を移してくる。

 海獣の躰の陰からヴァルムが見えて、今度は躊躇なく加速した。

 吐き出される水の塊を弾きながら近づき、砲台を斜めに斬り上げる。射出力の無くなった砲台からはもう何も零れてこなかった。


「ヴァルム! もうしばらく、頼む!」


 海獣の躰を蹴り、一旦離れて息を整える。

 返事はなかったけれど、おそらく大丈夫だろう。

 騎士団や魔術師達のサポートもあるのだと右足を引き、短剣を腰だめに構えて集中する。


 バチッと短剣の上で火花が散った。




 魔力を籠め始めてすぐに、ビヒトは暴れ回る力を押し込めるのに必死になった。

 暴発で一回を棒に振るのはごめんだと、内側で試行錯誤を繰り返す。なだめすかすように、あるいは力で押し付けるように。

 ぶるぶると短剣を持つ手が震え、冷や汗が額を伝い落ちる。


 この程度でか。


 舌打ちを打つ余裕もない。

 雷と呼ぶには程遠い。そのまま突き刺しても、ダメージになるかすら怪しい。

 それでは、意味がない!


 は、と息が漏れる。

 ヴァルムも、冒険者や騎士団員、魔術師達も、何をするのかと様子を窺って、ピクリとも動かなくなったビヒトに戸惑いを隠せない。

 時間が経てば、海獣もまた失くした部位を再生するだろう。

 分かっているだけに、ビヒトも焦っていた。


 暴発に巻き込む形にするなら、アレに近付いて短剣を突き立て、ありったけの魔力を叩きこんでやればいい。

 体力の尽きる前に、と、半ばヤケな結論に至って、ビヒトはふらりと足を踏み出した。

 一歩、二歩。進んだところでが聞こえた。

 幻聴かと三歩目を踏み出したところで、周囲の視線がビヒトの後方に向いているのが分かる。

 迫る足音に、いくつかの魔法が繰り出された。

 右に左に避けたのか、足音の主は軽やかにビヒトへと迫り、あっという間にビヒトの背中へと頭突きを喰らわせた。

 たたらを踏むビヒトの服を咥えて引き戻す。


 ――なにやってんの!!


 そう、ガツンと怒鳴られたような気がした。

 手元の魔力の流れが変わる。押し込めるなと。常に流れを作る。道筋を整える。風のように勝手には流れないから、導いてやる必要がある。

 ビヒトに教えるように、ビヒトに交じったもう一つの魔力が先導する。

 短剣の表面を青白い光の筋が走った。


 魔力を籠めるごとに光の筋は増える。淡い黄色に、眩しく青白く、そして、赤紫に。

 異変を上から眺めている魔術師たちがざわめき始めた。


 まだだ。まだ。もう少し足りない。

 相手に見舞ったあと、倒れる訳にはいかない。きちんと見届けなければ。

 どうする?


 海獣の砲台がじわじわと伸びていて、再生されつつあった。

 ビヒトの剣に呼応するように雲の底を這う稲妻を見上げる。

 それならば、目標物がいる。ビヒトの魔力を帯びて、そこに導く目印が。


「ヴァルム!!」


 空を見上げ、ただ名を呼んだ。どうしてそれだけで解ると思ったのか、後になってもよく解らない。

 それでも、その時ヴァルムはビヒトを見て動いた。

 何度も斬り捨てた触手を、飽きもせず斬り捨て、海獣の背に乗るとその幅広の剣を突き刺した。


「総員、退避!!」


 ヴァイスハイトの声に、戸惑いながらも反射的に人々は離れる。

 ヴァルムのまだ残る海獣の背に向けて、ビヒトは短剣を振り抜いた。

 ジグザグと光の筋が駆け上る。ヴァルム達を掠め、天まで。

 外したのかと、一部で不満の声が上がったのを、激しく明滅する雲の塊が黙らせた。

 ヴァルムが飛び退いたのが合図だったかのように、太く、眩しい柱が降り立つ。淡い黄色や、赤紫や、青白いものを引き連れて。


 一瞬の静寂。

 轟音は、ほんの後からやってきた。




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