71 夢の中の姉

「そんなに警戒しないで? ヴェルデビヒトも興味があったから、来たのでしょう? 何もしないわ。いえ。わ。今はね」


 いつの間に置かれたのか、ティーポットを傾け、紅茶を注ぐ。

 マリベルと飲んだ、あのお茶の香りがした。

 上目遣いに誘われて、意を決して部屋に踏み込む。もう水の纏わりつく重たさは感じなかった。

 ビヒトが椅子に腰かけると、袖を捌きながらカップを目の前に置かれる。

 容姿も、仕種も、ビヒトの知る姉だった。


「ここは、どこですか」

「まあ。知ってて来たのではないの? ああ。その短剣ね。偶然が重なった、ということかしら」


 少し考え込みながらカップを口に持って行って、彼女はぱっと表情を明るくした。


「美味しい! こういうの、久しぶり!」

「久しぶり……って、姉上は家で飲んでるんじゃないですか? 俺と違って」

「薄々感づいてるんでしょ? 私はあなたのお姉さんじゃないわ。あなたの中に私のイメージがないから、一番近いお姉さんを投影しているだけ」

「どういう……」

「ここは、深い場所。ふるい旧いヌシ様の眠る闇。ヴェルデビヒトが意識したから、少しだけ光が届いたのよ」

「深い……湖の、底?」


 ふふ、と彼女は笑う。


「少し違うわ。それはイメージ。本当の主様にも、あなたにも何事も起きていない。魔力を通してお互いが繋がっているだけ。夢みたいなものね」

「姉上でも、主でもなければ、あなたは……?」


 すっと、人差し指で彼女はビヒトの胸を突く。


「あなたの、祖先……かしら。その血の、奥の奥にこびりついているもの、よ」

「では、貴女は魔術師?」

「そうね」

「雷の魔法も、取り上げられる前の?」

「誰も、取り上げてなどないわ。使えなくなったの」

「どうして。罰ではないのか?」

「罰は罪を犯した者達が償った。眷属のほとんどを失った主様は、ご自分の成すべきことのために、力をひとつのことに注いでいる。無駄な魔力を消費しないように、ほとんどを眠って過ごしている」


 真っ黒い窓の外を見やりながら、姉の顔で、彼女は切なそうな表情を見せた。


「眷属はどうして失われて……?」

「衝突は避けられた。主様が星を元の場所へ戻したから。けれど、繋がりは切れなかったの。それはそこにあって、ないものとなった。各地に残った綻びを、最小限の影響に留める為に眷属は遣わされたの。もちろん、各地の主の眷属の力も借りたんだけどね」

「絶滅した生き物は、そうやって?」

「そうね。子を残せるほど余裕のあるものはいなかったのかもね。でも、お陰で影響は許容範囲で済んだ。主たちは小さな変化ごと新しい秩序として受け入れることにしたのよ」

「それで、いいのか? 眷属が何種類もいなくなっても……」


 彼女は、優しく微笑んだ。ビヒトが幼い頃よく見たように、未熟なものを微笑ましく見守る顔だ。


「ヴァイスハイトもよく悩んでた」


 父の名が出てきて、ビヒトの心臓が跳ねる。


「父上が? 父上も、ここに?」


 首はゆっくりと横に振られた。


「彼は結局、こなかった。もう一歩が、踏み出せなかった」

「……来なくても、父上のことがわかる、のか」

「私は、彼の中にもいるもの。だから、彼は恐ろしかった」

「恐い?」

「ヴェルデビヒト。眷属は主が変われば、変わる。ここの主様は交代できないから、眷属も減ったままだけど。変化に対応できない種は滅ぶ。それは当たり前のこと。主たちは変化しないことは望まない。自分の成すべきことに全力を尽くせたのなら、何の憂いがあるのでしょう」

「でも、その原因は」

「ヒトが残ったのは結果論。最初に言ったでしょう? 罪を犯した者達は罰せられた。残ったヒトも主様には協力した。そして変化に順応した。それだけ。難しいことなんて、何もない」

「本当に?」


 ただ冷めていく紅茶を前にするビヒトに、彼女は可笑しそうに笑う。


「単純なことも難しく考えるのは、人間の悪い癖ね。何もできないと言ったでしょう? 夢の中と一緒。飲んだって帰れなくなるようなことはないわ。そして、私はあなたの中にいる者。あなたの知り得たこと以外のことは、正しいかどうか誰にも判らない」

「では、姉上」


 どう呼びかけていいのか、迷いながら結局それが口に登る。


「雷の魔法を、見せてもらえないか」

「できるかしら」

「夢なんだろう?」

「ヴェルデビヒトは雷の魔法をどうしたいの?」

「どう?」


 姉の顔をした女は、今までの楽しそうな雰囲気とは打って変わって、口元は笑ったまま目を細めた。


「あなたが使うの? それとも、復活させて広めるのかしら」

「俺は発動させられない。危ないと言われているものを、不用意に広げようとも……」

「そうかしら。手にした力は使いたくなるのではなくて?」

「……まあ、たぶん、試すくらいは」

「それが、命取りになっても?」

「やってみなければ判らないから。場所を選べば、たぶん他の人に迷惑は……」


 ふっと、彼女の表情が緩む。


「先に教えてあげる。雷の魔法を使うためには相棒が必要だったのよ。練習にも、上位魔法を使うにもね」

「それって……まさか、いなくなった眷ぞ……」

「『天と地を結ぶ光の綱……―――と―――に――……』」


 ビヒトの疑問を遮るように始まった詠唱は、何故か出だしのところしか聞き取れなかった。古い言葉だからではなく、途中でどんどん小さくなって雑音が入る。赤い唇が言葉を紡ぎ終わると、窓の向こうにピシャリと青白い雷が落ちた。


「熟練になると、基本魔法くらいはひとりで使えるようになるけどね。満足した?」

「……聞こえなかった」


 意地悪をされた気がして、ビヒトは昔のように姉を睨みつける。


「あら。そう」


 声を立てて笑う様子に、ビヒトはあからさまに舌打ちをした。


「やだわ。これはあなたの夢よ。聞きたくないのよ。どこで知るべきか、自分で決めているんでしょう?」

「え?」


 彼女が立ち上がると、ティーセットが乗ったテーブルは消えてなくなった。

 するすると彼女は座っているビヒトに近づき、覆い被さるようにして顔を寄せる。


「そうね。チャンスね」

「なん、の」

「雷の魔法、使える可能性が欲しい?」


 息のかかる距離で、ビヒトを試すような瞳の光を見る。


「俺は、魔法は――」

方法で。もう、他の魔術師と同じことに何の意味もないと知ってるでしょう? 欲しい? いらない? どのみち“可能性”だけだけど」

「――欲しい」


 ほとんど即決だったビヒトの答えに、うふ、と笑った顔は、姉のものとは違って見えた。


「そう。そうよね。それでこそ――」


 唇を重ねられ、驚いたビヒトは彼女を押し返す。


「……何を」

「魔力を混ぜるのよ。現代の人間ならこの方がイメージしやすいでしょ」


 押し返した膝の上にいる姉は全裸で。目のやり場に困って、顔を熱くしながら視線を逸らす。


「あ、姉上と、できるかっ」

「ん? そう? そういうもの? 夢でも? 律儀って言うか……んー。え? この娘?」


 膝の上が少し軽くなって、誰かと話しているような調子に訝しがりながら、ちらりと視線を戻すと、金茶の髪が目に入った。


「この娘ならいいでしょうって」


 無邪気な笑顔に、ビヒトの顔は引き攣る。


「却下!!」

「えー。なんでよ。もう少し一緒にいたら、きっとそうなってたって。いいじゃない。夢よ。夢」

「マリベルの顔で言うな! 次に会う時、合わせる顔がなくなる! って、いったい誰がそんなこと……」

「固いなー。本当に私の血、引いてる? ま、引いてなきゃこうして会えないんだから、疑いの余地はないんだけど」


 彼女が呆れて溜息を吐くと、花の香りが鼻を掠めた。


「これで、文句はないかしら。ボウヤ」

「……一番抵抗はないが……誰の魔力を混ぜるって? さっきから、誰と」

「あなたの相棒候補よ。私はもうあなたに混ざってるから、いまさら必要ないもの。ここに来られた偶然を喜びなさい。もう、今の眷属にはヒトと魔力を交換するノウハウはなくなっちゃったから、手を貸してあげられるのは今だけ……ほら、ごちゃごちゃ考えてないで、集中なさい」


 ピンと額を弾かれて、瞬間目を瞑る。次に瞼を上げた時には、姉の部屋ではなくワガティオの娼館で、初めてそこを訪れた時のように彼女に組み敷かれていた。

 彼女の耳に赤い宝石のピアスがついている。それを見上げながら、本物の彼女も着けているだろうかと、ビヒトはそっとその石に触れた。




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