3 熊の素性
熊は「ヴァルム」と名乗った。
熊の頭部分を背中に押しやってしまうと、不揃いの灰色の髪が出てきて、歳は三十前後だろうか。冒険者だと言い、ひょいと手を伸ばしてその辺の蔦を掴むと力任せに引きちぎった。
ぼたぼたと滴り落ちる水分を大口を開けて受け止め、お前も飲めとヴェルデビヒトを誘う。
「ああ。無理すんな。おめえさんはナイフを持っとったろう?」
見よう見真似で蔦を引きちぎろうとした彼を、可笑しそうに笑って指摘する。
ヴェルデビヒトは言われた通りナイフを使って蔦を切り、思った以上の水分量に目を瞠って口を近づける。多少青臭いかと思ったのだが、そんなことはない普通の水だった。
「秋の山は食うものに困らん。ここは湖もあるから、水にも困らんな」
もうしばらく行くと、確かに山葡萄がたわわに実っていた。
ジュースにしたり、ジャムにしたり、加工したものは口にしたことがあるけれど、そのまま食べたことはない。
ひょいひょいと口に放り込むヴァルムと山葡萄を見比べてから、意を決してヴェルデビヒトは手を出した。
一粒摘まむ。
おそるおそる口に含むと、まず酸味が広がった。甘さもあるが、噛むと酸味の方が勝る。後に残る渋みと指につく紫の色は厄介だが、不味くはなかった。
「甘いのが欲しい時はもう少し奥に行けば、赤い実が生っとる」
「こんなところで何をしているんですか? 密入国とか……」
まるでここで生活していると言わんばかりの態度に、さすがにヴェルデビヒトも突っ込みを口にする。
ヴァルムはガラガラと笑い、腰の剣を叩いた。
「いやあ。宿に泊まるつもりがな、近道をしようと山の中を来たら、途中でヘマしてな。上着を失くしちまって。寒いからってたまたま出会った熊の毛皮をもらったんだが、良く考えたらこんな格好で街には出られん。この辺りも危ないモンは出ねぇみたいだから、ちょいと観光したらまた隣の国に移動しようかと思ってな」
「街に出るなら、熊皮を脱げばいいじゃないですか」
ヴァルムはちょっと苦笑いを浮かべて、腰紐をほどいた。
ばっと熊皮をはだけると、中はほぼ裸と言ってよかった。かろうじて前が隠れている、という程度の布の量。
呆然と目を瞠って、ヴェルデビヒトは思わずつぶやく。
「ヘマって……何したんですか」
筋肉質な身体には古いものも新しいものも、いくつもの傷があった。冒険者というのは嘘ではないと解る。
「ヘマはヘマだ。まあ、大したことじゃない」
拗ねたように口を尖らせる大男。
大したことのような気はしたが、彼はそれ以上突っ込まないことにした。
「……俺のローブじゃ小さいだろうし……」
「おっ。なんだ。貸してくれるっていうのか? 優しいなぁ! これで街に行ける!」
小さく独り言のように呟いた彼の言葉を拾われて、きらきらと目を輝かせて無邪気に喜ぶヴァルムを見ると、いや無理だろ、とは言えなかった。
ヴァルムは熊皮を脱ぎ捨てると、剣を持ってそれに振り下ろした。頭の部分を切り落とすようだ。それからそれを腰に巻くと、ヴェルデビヒトの差し出したローブを受け取って肩にかける。
もう、ローブというよりは短いマントだったが、辛うじて人に見えるようになった。
「寒くないです?」
上半身裸だと、見ている方が寒いと、ヴェルデビヒトは身震いした。
「まあ、ちっとはな。って、ああ、お前さんが寒いのか。悪い悪い。さ、行こう」
「え? あっ。いや、俺は……」
学校をサボってここにいることを思い出し、腕を引かれるも、腰が引ける。
だが、ヴェルデビヒトの抵抗などまるで意に介さずに、ヴァルムはすたすたと歩いて行く。転ばないように早足でついて行くのが精いっぱいだった。
まごまごしているうちに学校の裏まで来てしまい、ヴェルデビヒトは声を張り上げる。
「お、俺、学校、が!」
ようやく立ち止まって振り返ったヴァルムは不思議そうな顔をしてから、にやりと口を歪ませた。
「サボってるんじゃねぇのか? 堂々としてりゃあえぇのに」
「い、いや……」
言い訳はできないが、制服のまま堂々と出来る気もしない。彼が口ごもると、ヴァルムは手を離し、ヴェルデビヒトときちんと向き合った。
「まぁ、気が変わったんならそれでいい。名前くらい教えてくれ。後で礼に行く」
「……ヴェルデビヒト・カンターメン」
「カンターメン?」
復唱された家名に彼の身体がびくりと反応する。
顎に手を置いたヴァルムは小さく「なるほど」と呟いた。
他国のたまたまやってきた冒険者が、自分の家名を知っているのだろうか。よその国にまで、自分のことは……
ばくばくと胸を叩く音に意識が支配されそうになる。
だが、ヴァルムはすぐににっこりと笑った。
「誰かに聞いて、後で訪ねよう。では、ヴェルデビヒト、また」
のしのしと周囲の注目を集めながら去っていく背中から、ヴェルデビヒトはしばらくの間、目が離せなかった。
彼の周りの誰も、サボりを肯定するどころか堂々としろ、なんていう者はいない。熊を素手で投げる者も、もちろん。
昼食代わりのヤギの乳を購買で手に入れ、午後の授業に入ってからも、ヴェルデビヒトの奥深くに小さな衝撃が居残り続けていた。
夜。
夕食もそこそこに部屋に引きこもっていたヴェルデビヒトをハンナが呼びに来た。
「ヴェルデビヒト様にお客様ですよ。ヴァイスハイト様が対応しておられます」
少し怪訝そうにしながら、ヴェルデビヒトを応接室に案内する。
ヴェルデビヒトは、後で行くと言っていたからヴァルムなんだろう、と当たりはつけていたが、礼を言いに来ただけならば言葉を受け取って、そのまま父に追い返されていても不思議はない。
応接室に自分まで呼ばれるとは、どういうことかと訝しんだ。
「ヴェルデビヒト様をお連れしました」
開けたドアを押さえて、ハンナが頭を下げる。
進み出たヴェルデビヒトは、父の向かいに座っている人物を見て息を呑んだ。
ばさばさの不揃いだった髪は後ろへ撫でつけられ、油できっちりと固めてあり、不精髭も綺麗に剃られている。マントで半分隠れてはいたが、コートは銀糸の刺繍が見て取れて、きつそうなジレに、シャツはシンプルだったものの、襟元はタイで飾られていた。
びしりと背筋を伸ばして座る様は、貴族と見間違うほど。
変わらないのはその不敵な表情と灰緑色の瞳だけだった。
足を止めて不躾にもジロジロと客人を眺めている息子に、ヴァイスハイトは咳払いをする。
「ヴェルデビヒト。こちらの方が、お前に礼を言いたいと。心当たりはあるか」
身体の動かし方を思い出して、ヴェルデビヒトは父の隣に腰掛けた。
「……はい。ヴァルム……さん、です。湖の辺りで、会って……」
午前中いっぱいサボっていたことを言えなくて、ずいぶんぼかした言い方になった。ヴァイスハイトの眉が少し顰められる。
「学校の裏手で、困っていたところを助けられたのです。なにせ、身ぐるみ剥がされたような状態でしたので、ご子息がローブを貸してくれなかったら、今頃は凍え死んでいたかもしれません」
語り口まで違って、この人は本当に熊の皮を被っていた人物だろうかと、ヴェルデビヒトはもう一度見つめてしまった。
「ローブはこちらに新しいものを用意しました。お納めください」
ローテーブルの上に箱に入った新品のローブが置かれて、さらに驚く。
「新品!?」
声を上げる息子を窘めるように、軽く膝を叩いて、ヴァイスハイトは礼を言ってそれを受け取った。
にっこりと笑ってそれを眺めながら、手元のカップに口をつけるヴァルム。一拍置くと、笑みを深めてもう一度口を開いた。
「これだけでは、借りたものを返しただけになってしまう。どうでしょう。明日一日、ご子息をお貸し願えないだろうか」
「は?」
今度は父と子の声が重なる。
「聞いたところ、ご子息は成績も良いらしい。一日くらい学校に行かずとも、問題無いでしょう。実は、私の息子が同じくらいの年頃で……もう少し彼と語らってみたいのですよ。不慣れな土地故、案内をして頂ければ、彼にも納得がいく礼が出来るのではないかと思いまして」
ヴェルデビヒトにはそれは荒唐無稽な話に思えた。学校をサボらせて案内につかせろ、なんて冒険者からの要求を父が飲むとは思えない。
その父は何度か客人と息子とを見比べていた。
「この、ヴァルム・パエニンスラの願いを、どうか聞き入れてはもらえないだろうか」
ダメ押しのように名乗った家名は、ヴェルデビヒトにも聞き覚えがあった。
父の顔が引き締まる。
「……ヴェルデビヒト、しっかり案内して差し上げるように」
余裕綽々の笑顔を向けるヴァルムと、あっさりと許しの言葉を口にした父に、それが聞き間違いでも、ヴェルデビヒトの覚え間違えでもないのだと突きつけられた。
ここから西、大陸一の大きさと力を誇るサンクトゥア帝国の東隣に位置する国、フェリカウダ。そこの海に突き出た半島を含む領地。それが『パエニンスラ』だ。
遠い他国の一領地を何故はっきりと覚えているのか。
そこが帝国と渡り合ってフェリカウダが護りきった土地だからだ。地の利もあったのだろう。だが、大国とのいざこざは歴史として刻まれている。
領の名を家名に持つ。と、いうことは。
ヴェルデビヒトは返事をするのも忘れて、目の前の冒険者を眺め続けていた。
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