5 呼び名
ヴァルムはヴェルデビヒトがいつも行く森とは湖を挟んで反対の森に入ると、彼を背から下ろした。二、三度息をつくともう呼吸の乱れはない。このくらい何でもないという顔だ。
「楽しかったか?」
「……いや。恥ずかしい」
ヴァルムはなんでぇ、と口を尖らせた。
「誰にも見えとらんのだから恥ずかしくはないだろう。うちの坊主なら、まだ喜ぶと思うんだが……」
草をかき分け始めるヴァルムの後を慌てて追い掛けながら、ヴェルデビヒトはそんなことも言っていたなと思い出す。
「息子さんの話も、本当なのですか? 俺と、同じくらいと」
だとすると、ずいぶん若い時の子なのではないか。
「ああ。多分、
同じくらいではないなと思いつつ、首を傾げるヴァルムに驚く。
「自分の子に、会ってないと?」
「五つくらいまでは割とマメに帰ってたんだけどな。遠出が出来んしな。わしは子育てには向かん。姉に預けっぱなしだな」
「お、奥様は」
「愛想尽かして出て行ったからなぁ。あ、息子を置いて行ったのは、領主一族の端にいた方がいい暮らしができるからだぞ? 会いたい時には会いに来てるようだ」
「自由過ぎる」と彼の姉が評するのは、誇張ではないのだとヴェルデビヒトは解ってきた。
「あれ。ちょっと待ってください。外戚って、どの辺ですか。お姉さんに預けてるって……お姉さんが家名を名乗るのを許した、と言いました?」
領主の従兄弟くらいの感覚で聞いていたが、違うような気がしてきていた。
「そうだ。妻にも権限を与えるなんて、うちの領主は変わってるだろう? ま、パエニンスラは代々そうだな。ちょっと変わってるんだ。だから帝国にもへらへらしない」
ひぃ、と声が出そうになったのを、何とか彼は我慢する。領主の義弟。
それはお姉さんも手綱を握っておきたいだろう。是が非でも礼儀作法を身に着けさせなければいけなかったに違いない。彼女の英断を称えたくなった。
侍従の報告を聞いた父が目を丸くするのが見えるようだと、ヴェルデビヒトは飲み込んだ声を違う言葉で吐き出す。
「領主夫妻に子供を預けてるんですか!?」
「わしが育てるよか、ちゃんと育つだろう。費用くらいは収めとるし、あいつらの子もいるからな。遊び相手に困るまい」
そういうことじゃない気がする、と口に出す前に、ヴェルデビヒトの耳にクルルと少し高い鳴き声が聞こえてきた。
「ヴァルム」
マントを引っ張ったものの、彼は前を向いたまま大丈夫だと手で示した。臆することなく声の方へ近づいていく。
ヴェルデビヒトが少し身を低くして草叢から窺うと、そこには数匹の野生の
爬虫類のような顔に二本の角、
ヴァルムは竜馬たちの中でも一番気性の荒そうな個体に近付いていく。気付いた個体がギャーと声を上げた。
「おぅ。乗せてくれ」
馬車にでも乗るような気軽さでヴァルムは声をかける。手綱もないというのに。
ヴェルデビヒトは自分の飲み込む唾の音が周りに聞こえるのではないかと、さらに身を縮めた。
竜馬は歯をむき出してヴァルムに顔を寄せる。
しばしの睨み合いの後、竜馬は喉の奥をぐるぐると不満気に鳴らしながらも頭を下げた。
「おぅ。悪いな。森を越えるまでだからよ」
ポンポンと、犬猫にでも触れるような気軽さで触れているヴァルムを、ヴェルデビヒトは信じられない思いで見つめる。
冒険者とは、これほどまでに破天荒なものだっただろうか。
「ヴェルデビヒト、来い」
呼ばれて、出て行く。
この場は彼が統べているのだから、自分が台無しにしてはいけないと感じていた。出来るだけ恐れを出さないように堂々と足を進める。
ヴァルムが、笑った。
「おうおう。本当に素質があるな」
ヴァルムに抱え込まれるようにして竜馬に乗せられ、あっという間に森を抜ける。
湖が背にどんどん遠ざかっていくのを感じて、ヴェルデビヒトは少し不安になった。
街道が見えてくると、干し肉を与えて竜馬と別れ、見えている街を目指して歩く。
「ここはどこですか? 湖からかなり離れたようですが……」
「ん? 湖の位置が判んのか? へぇ。多分、国境を越えたとこの街だ。名前は何だったかな?」
「国境?!」
町どころか、勝手に国を出ている? 振り切ったであろう見張り役を思って、ヴェルデビヒトは顔色を失くした。
ヴァルムが気付いてぽりぽりと頬を掻く。
「心配しなさんな。ちゃんと送り届ける。そういう所は意外と優等生そのものだな。今日はお前さんにカンターメンの名を忘れてほしかったんだが……周りからはいつも何と呼ばれとる?」
「……ヴェルデビヒトか……ヴェル。ヴェルトロース、とも」
フン、とヴァルムは鼻で笑った。
「役に立たせるのは使うものの役目よ。ヴェルデ……ルディ……いや。ビヒト。行くぞビヒト」
呼ばれ慣れない名前だったけれど、ヴァルムにそう呼ばれることにヴェルデビヒトは違和感を覚えなかった。彼が呼んだとたん、彼の中の自分はそう落ち着いたんだと納得さえした。
魔法を発動させられないと知っていても、ヴァルムはヴェルデビヒトを優秀だといい、素質があると口にする。世辞や憐みではなく本心から。彼は役立たずのヴェルではなく、可能性のあるビヒトだと呼んでくれた。
ぽっと心の奥に明かりが灯る。
今まで真っ暗に塞がっていたヴェルデビヒトの景色が、ぼんやりと見え始めたような気がした。
◇ ◆ ◇
その町は冒険者の交流が活発な場所だった。
ほんの隣なのに、魔術が中心のアレイアとは全然違う。
冒険者達がたむろするような酒場があちこちにあって、国をまたいで依頼を管轄する
そこには訓練場があって、冒険者同士、あるいは職員といつでも模擬戦が出来るようになっている。
ヴァルムは行く先々で声をかけられていた。
手を上げて、軽くそれらに応えながら奥へと進んでいく。
訓練場では剣士と武器を持たずに半身に構えている二人が向き合い、緊張感あふれる試合をしていた。
周りは皆が好き勝手に囃し立てている。
「よう。ヴァルム。お子様連れとは珍しいじゃねぇか。お前の子か?」
「だったらいんだがなぁ。ちっと、縁あってな」
「しばらくこの辺りにいると言ってた割に見かけなかったが、何処行ってたんだ?」
「ちっとヘマしてな。熊やっとたわ」
なんだそれ、と聞いていた者達もげらげらと笑った。
「坊主に助けられたんよ。お前ら失礼するなよ?」
ヒュー、と口笛が鳴った。
「ヴァルムを助けただって? 見かけによらねぇなぁ。剣か? 弓か?」
「魔術師の卵よ。実戦を見せてやりたくてな。誰か魔法が使えるヤツいないか?」
その紹介に辺りはざわりとざわめき、ヴェルデビヒトは身を硬くした。
「俺」と手が上がり、ヴァルムと歳の頃が近そうな青年が近付いてくる。
「でかいのは撃てないが、いいか」
「少年がやるのか?」
「いいや。そいつには見せたいだけだ。次空いたら頼む」
ヴァルムはマントを外してヴェルデビヒトに預け、腕まくりをした。
先の試合の決着はついていなかったが、二人も空気を呼んで場所を空ける。
ヴァルムが一段高くなった試合場に上がると、冒険者たちの目つきが変わったのがヴェルデビヒトにも分かった。期待のこもった目。
「少年。よっく見ておけよ? ヴァルムは教えるのが下手だからと何も教えちゃくれないが、学べることは山とある」
気が付くと、いつの間にか場内の見物人の数は倍くらいに増えていた。
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