60 魔獣の仔
片手で抱えられるほどの大きさとはいえ、全力で飛び込んできた衝撃は大きかった。
片足を下げて踏み止まったはいいが、そのせいで屈みこむタイミングを失う。
目だけは魔法の軌道を追っていて、事実、何も考えていなかった。
だから、右手に何かを押し付けられて、魔法の形が鮮やかに浮かび上がり、振るうべき太刀筋まで見えても、素直に受け入れられた。
足元に転がるハテックが起き上がりそうな気配を踏みつけて、押し付けられた物を振るべき位置へ振り上げる。
綺麗に二つに分かれた
周囲の様子がビヒトの頭の中に流れ込んでくる。
木々の位置、不満気な足の下のハテックの拍動、腕の中の微動だにしない塊に、正面からゆっくりとやってくる魔獣の気配。
くらりと眩暈がして、感度が上がりすぎていると、ぎっちり握っていた右手を開いていった。
剣を離すと、細い糸を無数に差し込まれたようになだれ込んできていた情報量が減って、要らないものを切っていく余裕が出来た。その感覚をゼロにしてしまうのが惜しくて、丁度いいところはないのかと欲を出した瞬間、足元の感覚が頼りなくなって横から衝撃を受ける。
はっとして腕の中の物をしっかりと抱え込んだまま、ビヒトは地面へと倒れ込んだ。
軽く頭を打ち付けて、すぐに両肩を抑え込まれる。
薄く目を開けると、かなりご不満顔のハテックの牙を剥いた顔がそこにあった。
ぞんざいに扱った自覚はあるので、そのまままたそっと目を閉じる。
低いうなり声と生温かい息がゆっくりと顔に近付いた。腕の中で何かが身じろぎしたので、そっと撫でながらその感触に自分も気を逸らす。
「夢中で気付くのが遅れたんは、わしらが悪い。その辺にしとけ。ほれ、お客さんだ」
ヴァルムの声がして、不満気な唸り声は渋々と遠退いて行く。両肩が軽くなると、毛の生えた鞭のようなものがビヒトの顔を叩きつけていった。
「大丈夫か?」
「……まあ。少しくらくらする。剣、助かった」
「お前さんのは弾いちまったからな。間に合ってよかった」
ビヒトはヴァルムに起こされて、そのまま少し大きな木の陰へと移された。フルグルとヴァルムの竜馬も傍に来る。
ようやくゆっくりと抱えていたものに目を移すと、くりくりとした不安げな瞳がビヒトを見上げていた。汚れてはいるが、大きな怪我はないようだった。白い毛並みに耳の先だけ黒く染まったようになっている子猫。額の真ん中に、ぽつりと何か……
「子供だな。同族の子をああいう風に追い込むなんぞ、性根の悪ぃ」
「同族? 来たのもハテックか? と、いうか、子猫じゃないのか」
斑紋も無く、毛を逆立てて唸ったところで猫にしか見えないだろう。言われてみれば、耳の形が少し違うかなというくらいだ。指で首の辺りを掻いてやれば、気持ちよさそうに目を細める。
「魔獣の子、だぞ。それもかなりエリートだ」
ヴァルムは呆れたように子猫の額を指差した。
シャッと牙を剥くと、魔力が飛び出してその指の皮がぷつりと切れる。血が出るほどではないが、「な」と彼は肩を竦めた。
「普通の猫はこの辺りに近付くまい。縄張りがあんのかどうか、わしは知らないが、アイツの行動範囲には入っとるんだろうから、やってきた客をどうあしらうかで身の振り方が決まるな。逃げる準備だけしておけ」
「今逃げちまえばいいんじゃないのか?」
「玩具に庇われて面白い顔晒しとったからな。勝ち逃げさせてくれるとは思わんな。相手も……一癖ありそうだ」
魔獣の玩具とか、字面からもぞっとしないが、木の向こうを覗き見て表情を引き締めたヴァルムに、下手に動けないということは理解した。
「基本的にわしらは自分しか守らんのよ。アイツがわしらを自分の獲物だと主張してくれるかは判らん。まあ、その場合あっさり引き渡されるだろうから、判断までの時間は短くて済むな」
「同時に襲われるってことはないのか?」
「アイツの性格上、それはないと思っとる。アイツも変わりモンだからな。面倒なのはそいつだけ返せと言われた時だろうな」
辺りを警戒しながらも、ビヒトの膝の上で毛繕いを始めていた子猫……子ハテックは急に集まった視線にビクリと身体を震わせた。
弱肉強食の世界、元々ビヒト達にその子を助ける義理はない。
「闇雲に逃げ出したりせんのは、お前さんが庇ったのを感じてるんだろうよ。囮にでも使おうと企んでるかもしれんぞ。さっさと放しといた方がいいかもしれねぇ」
ヴァルムの言う通りなんだろう。
だが、腕の中で震えていた小さな命を、性根が悪いという同族の前に追い払うような真似はビヒトはしたくなかった。
「……逃げるタイミングは、自分で計るだろうさ」
「……おめえさん、女には騙されねぇが、子供にはやられるクチだな? 気をつけろよ?」
にやにやと放たれる忠告に、ビヒトは納得したくはなかったものの、否定も出来ずに渋々頷いた。
口では放した方が、なんて言いながらも、ヴァルムだって黙って差し出す気はないはずだった。彼は誰彼かまわず喧嘩を売っているように見られがちだが、無意味な殺生はしない。相手が逃げるなら無理に追わないし、逃がしてくれるなら相手にしない。
手にかけた相手は大体が食料となって腹に収まっている。毒持ちとか、よほどのことが無ければ。
命を無駄にしないという観点から見れば、少年の頃、ヴァルムが熊を食べると言ったのも何も矛盾はなかったのだ。
少し懐かしく昔を思い出しかけた時、空気を震わせる二つの咆哮が、辺りを満たした。
ヴァルムが剣を握り直して木陰から窺う。
子ハテックは文字通り飛び上がって、ビヒトの膝から転げ落ちた。
「ビヒト、動けそうか?」
「……フルグルに乗るくらいは」
立ち上がれても、動ける気がしなくてビヒトは正直に告げる。座っていても頭を動かすとその度に世界が揺れていた。
小さく息をつくと、ヴァルムは木の向こう側へ回り込んだ。
「もう少し離れてくれたら、移動できるんだが」
「すまん」
「なに、最悪ではないわ。お前さんは意識を保ってるし、アイツの不満のぶつけどころも決まったようだしな」
大きな魔力同士がぶつかり合って、はじける気配がした。それを合図に、ハテックたちの争う音が聞こえてくる。
ビヒトは届く範囲の土を均して魔法陣を描き始めた。背にした木の向こう側で、ヴァルムが時折飛んでくる魔法を斬ってくれているのを感じる。
両サイドは竜馬たちが固めて警戒してくれていた。子ハテックはビヒトの足先の向こうで、この場を離れようか残ろうか決めかねて、小さくウロウロと彷徨っている。そのうちビヒトが地面に指先をつけて動かしているのが気になったのか、気が付けばまた傍まで来てじっとその様子を眺めていた。
魔獣たちが放つ魔法は一つ一つが大きくて、ビヒトの陣ではほんの気休めにしかならないだろう。この場で魔力を使い果たす訳にもいかない。けれど、魔法の余波で飛んでくる、枝葉や小石は気にならなくなる。無いよりはマシなはずだった。
木の周辺、竜馬たちも含めた範囲を半円状の風の盾で囲う。
陣が発動すると、子ハテックは不思議そうに頭上を見上げた。
「ビヒトか。余計なモンが飛んでこなくなって助かる……が、大丈夫か?」
「彼等の魔法は多分防げない。その程度だ」
結局最後はヴァルムに頼るしかないのがビヒトは口惜しかった。
「その状態で、これを『その程度』って言うのかよ」
ヴァルムは喉の奥で可笑しそうに笑う。獣の唸り声や魔法がぶつかり合って始終空気が震えているのに、ちっとも危機感を感じない。
絡まり合うような息遣いと小さな威嚇、乱れた足音が近づいて、木の向こうでがちりと金属同士がぶつかるような音がした。
「おめえの相手は、わしじゃない」
喉の奥で笑ったままの声がする。
逃げるように回り込んできた魔豹はビヒトの傍に子ハテックを見つけると、目の色を変えた。
むりやり進行方向を変えて突進してくる。
ビヒトは思わず彼を駆け上がってきた子ハテックを抱え込んで、座ったまま、ヴァルムが拾ってきてそこに投げ出されていた剣を掴んだ。フルグルが立ち位置を少し変える。
魔豹は風の盾に触れると気持ちだけ押し戻された。忌々しそうに顔を顰めたのが分かる。
そのままだったなら、次の瞬間にはそれを突破して襲い掛かられていただろう。けれど、押し戻され、動きが鈍ったその瞬間に、横合いからもう一匹のハテックが突っ込んできた。
短く悲鳴のような声を上げて、魔豹は視界から消えた。
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