90 刃隠す吹雪
当然のように、それは水魔法だった。
ただ、予想していたよりも注がれる魔力量が多い。一番単純な
ビヒトは短剣を前に構えて、組み上がる魔術式に集中する。残念ながら、というのか、幸いというのか、
そうであったなら、もう発動されているはずだ。
今、それが組んでいるのはもっと複雑な、上級魔法と呼べるものだった。
しかも、魔法が得意ではないらしい。組み上げるのに時間がかかっている。
氷、それから風。
自らを中心に広範囲……拡散、ではなく、循環……
追いかけるように読み解きながら『
範囲指定を根こそぎ削ると、海獣の躰がどくんと脈打った。
ビヒトの魔力が自分のそれを侵すのを感じているのだろう。触手がビヒトへと向かってくる。
けれど、動けなかった。
集中を切らせない。何より、少しでも他の動作をすれば書き換えは間に合わない。範囲を削っただけの上級魔法など、発動させるわけにはいかなかった。
触手が届くのが先か、書き換えるのが先か。
ビヒトを挟み込んで叩き潰す勢いの触手が、護りの魔法にわずかに動きを緩めたとき、残りの文字は二文字だった。
ビヒトは歯を食いしばり、膝を落として衝撃に備えようとする。
――あと、一文字。
間に合えと祈るような気持ちが届いたかのように、片方の触手がビヒトの視界から消えた。軽やかにターンを決めて現れた人影は、もう一本もビヒトに触れる直前に斬り上げる。勢いのまま迫る後続も、手の中で返した剣の腹で押し返した。
「あと、どんくれえだ」
「もう、終わった!」
ばたつきながら再びビヒトに向かってくる触手を相手にしながら、口元が綻ぶ。
ぶるぶると小刻みに震える海獣から、白いベールが空へと伸びた。周囲の気温が一気に下がり、吐く息が見えるようになる。
真直ぐに舞い上がった雪と氷の塊は、上空に広がっている雷雲の中へと潜り込んでいき、周囲から零れたものがちらちらと地表に戻ってきた。
だいぶ短くなった触手から一旦距離をとり、動向を見守る。
「助かった」
「おう。こっちこそ。あれはまともにくらいたくねえ。参謀は?」
「水球をいくつか受けてたが、まあ、大丈夫だろう」
腹立ち紛れなのか、届く範囲の木々をなぎ倒し始めた海獣の上で、雷光がビカビカと瞬いた。
活発になった雷雲から、いくつもの細い稲妻が雲の底を走って行く。そんなことにお構いなしで振り上げられた触手に、狙いを定めたように白い稲妻が落ちた。
叫び声を上げたのか、稲妻が落ちた衝撃だったのか、ドン、という音と共に空気が震えた。
「……狙ったんか?」
「……まさか」
明らかに動きを鈍らせた海獣は、時折びくびくと身を跳ねさせている。
「今までの攻撃の中で、一番効いとるな」
表面的には、魔熊のように焦げた様子もない。粘液に覆われていたので、それのお陰で……?
いや、とビヒトは思い直す。
逆だ。
衝撃が全身に拡散されてしまったのではないか。
仕留められはしなかったようだが、あの細い稲妻で、今までにビヒト達が与えたダメージを軽く超えていそうだった。
思わず舌打ちが出る。
「狙えるなら……」
雷の魔法が使えたら。
あの女は「あくまでも可能性」だと言った。それでも、発動さえできるなら、何とかなるかもしれないのに。
この場を離脱して、父に這いつくばってでも許しを……
魔術師たちの待機している方を振り返って、ビヒトははたと気付く。
この国では、禁忌だ。
今、目の前で起きたことは、海獣が暴れて魔法を暴走させて勝手に罰を受けた。そう、取れなくもない。
あとは無い。そうビヒトに教え続けていたヴァイスハイトが、アレを倒すためとはいえ、雷の魔法を使わせることは、ない。
盗人まがいのことを思い浮かべて、ビヒトは緩く頭を振った。
馬車の護りを見たじゃないか。
隙のない魔法で守られていれば、書斎に入れても本を見つけ出すことも出来ないだろう。
偶然を期待して、もう一度氷の粒を雲に叩きこむか?
雲の中で瞬く光を見上げて、ビヒトは短剣を握る手に力を籠めた。
「やめとけ。偶然は続かん」
ぴしり、とビヒトの眉間をヴァルムは弾く。
思わず瞑った瞳を開く頃には、ビヒトも少し冷静になって、肩に入った力を抜くことが出来た。
「そう、だな。アレが動けないうちに、もう少し削って……」
数歩足を出したビヒトをヴァルムが止める。
「それに。お前さんがやらんでも」
言い終わる前に、魔術は組み上がった。
雲を吹き飛ばさないように海獣よりは小さな規模で『
雪が氷の刃を隠し持ったまま渦巻いて、一部の雲を吸い込むようにしながら上昇し、一体となっていった。
ビヒトが何をしたのか、理解できているものはいないのだろう。完全に同じようには発動できなかったようだ。
「……な? お前さんしか出来ないことのために、その魔力はとっておけ」
雲の中で先刻と同じように光が瞬く。雲の底を舐めるように走る稲妻が増え、いくつかが落ちてきた。森の中へ、湖の方へ、だが、それに規則性はない。結局、海獣には落ちることなく、収まっていった。
「結局、地道にやるのが一番か」
「面倒だがなぁ。さっきので魔力を使い切ったとも思えん」
苦々しく口元を歪ませたヴァルムだったが、気をとり直したように「行くか」とビヒトの背を叩いた。
海獣はまだ動き難そうだが、少しずつ回復しているのが見て取れて、ビヒトは一度深く息を吸い込んでから足を踏み出した。
◇ ◆ ◇
陽が高くなる頃には、アレイアの騎士団と異常を嗅ぎつけた冒険者がぽつぽつと参戦し始めた。
数が増えれば、などという楽観はあっという間に覆される。そもそも、一般の武器では海獣の表面を削ることも難しかった。
ぬるりとした粘液に形を変える体躯。浅い傷はいつの間にか修復されてしまい、槍も深くは刺さらない。筋肉のように自在に締められるのだろう。
結局、武器に魔力を纏わせられる者以外は戦力外としてふるいにかけられた形となった。
「めんどくせぇな」
いつも持ち歩いている酒の入った水筒を傾けつつ、ヴァルムがぼやく。
ビヒトはそれをひったくった。
「ヴァルム! 傷に障るだろ!」
「痛み止めみてぇなもんだ。影響出るほど飲まねえよ」
飲まなきゃやってらんねえ、と悪びれもせず手を差し出してくる。
「どこか、怪我でもなさってるので?」
こちらはきっちり手当を終えた参謀が割って入った。
「アバラの辺りがな。問題ねえよ」
「確かに、気付きませんでしたが……」
動物でも追い払うかのように手を振るヴァルムだったが、参謀は頓着しないで寄ってくる。反対の手で酒を催促されて、ビヒトは溜息を吐きながら水筒を返した。気持ちは少しだけ解る。
参戦者が増えたところで、ビヒト達は一度作戦会議という名の休憩に入っていた。
さすがの海獣も大規模魔術を撃った後で雷に打たれ、しばらくは大きな動きはないだろうと、長丁場を懸念したアレイア側に言われてのことだった。
魔術学校の一部が開放され、急ごしらえの休憩室が出来上がっている。先に情報交換をしたいからと、交代した騎士団員にロビーで待ってるよう伝言されたのだ。言われた通りに来てみれば、医務室から戻ってきた参謀とも顔を合わせる形になっている。
ヴァルムの「面倒臭い」は、海獣に対してだけの感想じゃなかった。
「何をしたのか私も気になります」
わざわざビヒトの正面まで来てそう言うと、参謀はにっこりと笑った。
――面倒臭い。
時々寄せられる、魔術学校の関係者からの視線を避けながら、ビヒトは内心深く息を吐くのだった。
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