68 食うか食われるか

「魔猿……!」


 一気に背中が冷える。

 あの大きさの石なら、一緒に来たハテックと同程度か、もう少し強くてもおかしくない。

 黄色い石は光属性。あまり攻撃的な印象はないが、細く収縮させて対象を穿つこともできる。少し高度に使えれば幻影を見せたり、自分の姿を隠したりもできるはずだ。

 知能が高いほど厄介な相手に違いない。

 ビヒトは身構えてはみたものの、ここまで猿が魔法を使おうとした様子はなかった。力任せに格子を揺するか、鋭い爪のある腕を伸ばしてくるくらいだ。


 壁の陣は発動している。陣なら使えるのか?

 と、ビヒトは炎弾フラン・グロブスの魔法陣を描いてみる。魔力を籠めてみても、陣は反応を示さなかった。

 防御系の陣もダメ。

 光の属性だけ大丈夫なのかと、目くらましになるくらいの光量を発しようとするともう発動しない。純粋な明かり以外の魔法は封じられている。そう、結論付けるしかなかった。

 相手も条件は同じとはいえ、ストレートな力比べでも不利な気がする。


 改めて冷や汗を拭い、格子の向こうでいらいらと右へ左へ往復している魔猿に向き直る。食料もなさそうなこの場所に何故居座っているのかとよく見れば、隣の檻の中には白骨が散らばっていた。何度も齧りついているのか、折れたり細くなったり、ほとんどがバラバラである。

 もしかして、同じように落ちてくる侵入者を食いつないで……?

 嫌な想像が浮かんで、ビヒトは身震いした。


 唯一幸運なことは、魔猿がこちらで待ちかまえていなかったことだ。もしかしたら、誰かがその区画に閉じ込めたのかもしれない。そうなら、あの扉には鍵がかかっている、のか。

 ひとりで確かめるのはリスクが高いと、ビヒトはヴァルムを見上げた。


「ヴァルム! 階段回って下りて来られるか? 魔術は発動しないようになってるから、この階の罠はそう多くないと思う。出口がどっちかわからんから、確認して、誘導を……」


 ガツンと魔猿が格子に体当たりした。部屋全体が震えた気がして、ビヒトは剣を構え直す。


「行くのは構わねえが、大丈夫か? そこは造りが変わってた気がするから、辿り着くまでちとかかるぞ。今、ロープでも下ろそうかと」

「そこから下ろされると、ヤツの手が届く。捕まればまずそうだ。壁際なら、よかったんだが」


 言っている間に、もう一度体当たりされた格子が、わずかだが形を変えた。

 ビヒトの顔が引き攣る。


「どっちにしろ、凌ぐしかない」

「わかった。なるべく急ぐ」


 三度目の体当たりで歪みを広げると、魔猿は曲がった格子を掴んで雄叫びを上げた。徐々に隙間が広がるのが見て取れて、慌てて無防備な頭に剣を振り下ろす。魔猿は冷静にビヒトへと腕を伸ばし、その体を掴もうとした。剣が届く前に後ろに飛び退すさると魔猿はまた格子をこじ開けにかかる。


「馬鹿力めっ」


 魔法の発動を封じているくらいだ。格子の強度もかなりのはずなのに。年月で脆くなっているなら、もう折れていてもおかしくない。

 女性の悲鳴のような甲高い叫び声にぶるぶると震える腕。赤い顔がより赤く紅潮していき、じわじわと隙間は広がる。

 格子と狭い空間のせいでビヒトも有効な攻撃が出来ないでいた。突き出した剣を握られたり払われたりして折られると痛い。ヴァルムがくるまで牽制して、作業を出来るだけ遅らせるようにするしかない。

 前に出ては下がって、時々指を斬りつける。

 集中して作業できなくなって、猿はイライラを募らせていった。


 業を煮やしたのか、魔猿はひとしきり床や格子に八つ当たりすると、がっしりと曲げた格子にしがみついた。

 ビヒトが突き出した剣も避ける気配がない。無防備な胸に狙いをつけていたビヒトは、思わず今までよりも一歩深く踏み込んだ。

 切っ先が胸に辺り、そのまま押し込むべく体重を乗せようとして、横っ腹を狙う爪を危ういところで避ける。服に引っかかった爪がビヒトのバランスを崩させた。戻ってきた拳の直撃は回避したものの、後ろへと飛んだ力も相まって、ビヒトの身体は壁に打ち付けられる。衝撃に剣が手から零れていった。


 嘲笑うような雄叫びは、そのまま腕の力へと昇華され、格子がメキメキと音を立てた。

 剣を拾い立ち上がる頃には、歯を剥き出した魔猿の顔が格子に遮られることなく見えるようになっていた。フーフーと荒い息づかいがビヒトの耳元でしている気がする。張りつめた空気の中、開けた隙間に猿がゆっくりと肩を捻じ込んだ。

 ちらりと檻の扉を確認したビヒトを牽制するかのように、魔猿の爪がビヒトの足元の床を引っ掻いた。

 ビヒトもその手に剣を突いてやる。

 引込められた手は、自分の身体を引き摺り出そうと床を掴む。


 黙って待っててやるもんかと首を狙えば、もう一方の手が剣を阻んだ。固くて弾力のあるそれはしっかりとビヒトの剣を受け止めた。血が出るのも構わずに握り込まれると、ビヒトの力では押しても引いても動かない。

 焦るビヒトに魔猿がにたりと笑ったような気がした。

 ぐいと引かれて、仕方なく剣を手放す。

 下がったビヒトから目を逸らさずに、魔猿は手に残った剣を床に叩きつけた。折れた剣は後ろへと放り投げられる。


 ビヒトは腰の後ろに手を回し、短剣を取り出す。心許ないが、無いよりはマシだった。

 ずるりと上半身が出てきて、次は脚を、と、両手が格子を掴んだところで懐に飛び込む。刺そうと思った切っ先はその硬さに下に滑った。屈み込む形になったビヒトの頭の上を魔猿の両腕が掠めていく。距離をとろうと横に転がったものの、その足は魔猿に捕まった。引き上げられ、身体が地から離れる感覚に血の気が引く。


 キィエエエエエエ! という魔猿の叫び声と、上から何かが落ちてきた音が同時に聞こえ、ビヒトの足を掴んでいた手の感覚が消えた。宙に放られたビヒトを何かが引き寄せ、そのままぞんざいに床に転がされる。


「狭ぇな」


 呑気にも聞こえる声は、自分の剣をほいと投げ出すように手放した。

 天地を確認して、軽く頭を振ったビヒトは荷物を背負った大きな背中に目を瞠る。


「……ヴァルム?」


 色々な何故を問う前に、魔猿が両手を振り上げる。もう、片足はこちらに入り込んでいた。


「どれ」


 唇を舌で湿らすと、ヴァルムは真っ向からその手を受け止めた。

 無茶だ。いくらヴァルムでも。

 金属の棒を曲げる様を見ていたビヒトには、剣を捨て、肉弾戦に持ち込もうというヴァルムはあまりにも無謀に思えた。確かにヴァルムの剣はここでは取り回しにくいが、熊とは決定的に違う。

 飛び起きて加勢しようとしたビヒトだったが、魔猿に持ち上げられ、振り回されたヴァルムを避けるのに、さらに下がることになった。一番隅まで追いやられる。


 ヴァルムは壁に叩きつけられそうになりながら、器用に身体を丸めると、近付く壁を蹴りつけて魔猿を押し返す。

 上体を逸らす形になった猿の胸を引きつけた両足で蹴りつけ、さらに追い打ちをかけた。魔猿は倒れることも出来ずに、強かに格子に身を打ち付ける。

 叫び声が響いた。


「どうした。そんなもんか?」


 挑発するようなヴァルムの声に、残った片足も格子の向こうから引き抜いて、魔猿は頭を低くして突っ込んできた。

 ヴァルムは軽やかに避けているが、お陰でビヒトには逃げ場がない。隅でできるだけ小さくなって様子を窺う。

 扉側へと避けたヴァルムの背中に、魔猿が身を捻って爪を引掛ける。その腕にぱっくりと傷が口を開けて血を滴らせていたが、全く頓着していない。革の背負い袋が音を立てて裂けた。


「む……?」


 その場で中身がばらばらと落ちてくる。着替えや食料がほとんどだが、中には乾燥させた草や酒のストックも出てきた。

 魔猿が足元に転がった固パンを掴み上げ、匂いを嗅ぐと口に放り込んだ。がりがりと噛み砕く音をさせながら、目では次の食べ物を探している。手に触れる物をとりあえず口に持っていく様は、餓えた鬼のようにも見えた。

 息を潜めるようにしていたビヒトは、向けられた魔猿の背中に妙なでっぱりを見つける。背中の下の方、腰よりは少し上に白っぽい何かが刺さっている。

 食べるのに夢中になっているのを確認して、ビヒトはそれに手を伸ばした。


「ひとの食料くいもん食ってんじゃねえ!」


 それに手が届く前に、ヴァルムがひねりを加えた蹴りを入れる。魔猿は軽く飛んでビヒトの目の前で壁に激突した。慌てて格子側に身を移す。

 ヴァルムは、振り回されて余計中身の散らばった背負い袋を下ろし、魔猿の顔に投げつけると、両手を組んでその鼻面に振り下ろした。ギャン、と悲痛な声を上げながらも、魔猿は振り回した手に当たったヴァルムの足を掴まえて引き寄せる。

 咄嗟に頭を庇いながら、今度はヴァルムが倒れ込んだ。

 背負い袋を払い落として、魔猿がヴァルムに圧し掛かろうとしたのと、受け身から猿の手を蹴り払ってヴァルムが起き上がろうとしたのがほぼ同時だった。


 めまぐるしい動きになかなか手を出せないでいたビヒトだったが、転がっていたチーズをひとかけら拾い上げると魔猿の顔に投げつけた。

 匂いに釣られたのだろう。魔猿がヴァルムから顔に当たって落ちていくチーズの方へと意識を向ける。

 転がる欠片を追いかけて身をかがめた魔猿の背中を、ビヒトは少し回り込んで蹴りつけた。

 魔猿が体勢を崩したのは、ほんの少し。けれど、ヴァルムにはその少しで充分だった。


 腰を落とし、しっかりと組んだ両手を魔猿の後頭部に叩きつける。

 鈍い音を響かせて、魔猿は床に沈み込んだ。




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