66★音楽の天使からの贈り物(エンツォ視点)

 毎日暗い顔をしているうちに、僕は寄宿舎で嫌がらせの標的にされるようになった。低くなった声で話すのが嫌で、文句の一つさえ言えなかったが。


 神は僕を見捨てたのだ。生きている意味さえ分からない。


 音楽院を抜け出して、あてもなく彷徨さまよい歩いたナポリの裏道で、僕はなぜか古書店に迷い込んでいた。誘われるまま手にした古い書物が、錬金術師の残した悪魔召喚術の写本だった。


 僕は死に場所を探していた。でも同時に、負け犬として野垂れ死ぬのは嫌だった。


 だがこの命の活用法を見つけたのだ。悪魔に食らってもらえばいい!


 そして誰も彼をも道連れにできる素晴らしい方法を思いついたのだ。


 スターになれなかった僕でも最期くらいは有名になって華々しく散りたい。だから洒落た文章で遺書をしたため、最近親しくなった後輩へ届けることにした。彼はきっと周囲に相談するから、僕の文章は人々の目に触れるはずだ。


 僕は魔法陣を描いた石盤を片手に屋上へ上がった。もちろん悪魔を呼び出す呪文もしっかり暗記してある。


 屋上の手すりを越え、赤茶けたレンガの上を歩いてホールのちょうど上に立つ。


 せっかくだからかわいい後輩が歌っている最中に飛び降りてやろう。開いた窓から観客の拍手が聞こえてくる。本来なら僕もあのステージに立って、拍手を受けるはずだったのに。


 やがてリコーダーとテオルボ、チェンバロによる前奏が聞こえてきた。あいつが歌うのは確かこの曲だったはずだ。呪文を唱える準備をしていると、アルトの歌声が聞こえ始めた。 


「君が僕を見つめる

 その視線はまるで――」


 オリヴィエーロとかいう、妙に綺麗な顔立ちの少年が歌っているはずだ。


「クピドがつがえる愛の矢」


 鈴を転がしたような愛らしいソプラノが、足元からふわりと僕を包み込んだ。


 これはリオネッロの声か? しばらく聴かない間にずいぶんうまくなっている――と思ったとき、青空の彼方から天使が羽ばたいてくるのが見えた。


「ほほ笑みと共に飛来して――」


 軽やかなソプラノは、その天使の唇から聴こえてくる。


 僕は幻でも見ているのか? まばたきし、目をこすっても、天使は白い翼で羽ばたきながらどんどん近づいてくる。


「僕の心を捉えて離さない」


 天使が歌いながら目の前まで来たとき、僕は息を呑んだ。林檎のように紅潮した頬に、碧い瞳の上でくるりと上を向いたまつ毛――知っている。僕はこの子供の顔をよく覚えている。


 だって十年前、鏡でいつも見ていた自分自身だから。


「いとしい君のまなざしが

 僕にそそがれたあの日から」


 天使の翼を生やした小さな僕は、声を出すことそのものが喜びだと言わんばかりに、幼い顔を輝かせて歌っていた。


 そうだ、あの頃僕は、歌えば音楽と自分が一つになったように感じていたんだ。僕の初恋は音楽そのものだった。


 オリヴィエーロとリオネッロの歌が途切れ、間奏に差し掛かると、僕は自分の体が地元の教会に浮かんでいることに気が付いた。すぐ目の前では幼い自分がつたない発音で一生懸命、聖歌を歌っている。その顔を見なくても、楽譜に真剣なまなざしを注いでいることが分かる。


 指導者の言葉に耳を傾ける少年は、年上の聖歌隊員よりずっと集中している。なぜなら、もっと綺麗に歌いたいと願っているから。美しいものが大好きだから、自分も美しい声で歌いたくて――


「恐れることはただ一つ

 君との別離だけ」


 B部分が始まると、僕はまた音楽院の屋根の上に戻っていた。


 どこまでも真っ青な空を見つめながら、子供のころから抱いていた本当の願いに気が付いてしまった。


 ずっと音楽と共に生きていけるなら、それが一番の幸せだったんだ。もちろん幼い僕は、高い声を維持し続けるということが何を意味するかなど知らずに、無邪気な瞳のまま願っていたのだが。


「どうかいつまでも

 君の魅力的な瞳の中に

 僕を捉えて離さないで」


 十年前の僕が、今の僕が失ってしまった透んだ声で歌う。青空を自由に飛び回る過去の自分を見つめながら、僕はただ静かに泣いていた。


 そしてダカーポ前の一瞬の静寂で、僕はふと我に返った。


 一体僕はどうしたのだろう? 何が僕をこんなに醜く変えてしまったのだろう?


 変わってしまった自分が情けなくて、神を呪った自分が恥ずかしくて、僕は嗚咽を漏らしていた。


「お兄さん、どうして泣いているの?」


 愛らしい声で尋ねられて、僕はまぶたを覆っていた手のひらを顔から放した。


 白い翼をゆったりと羽ばたきながら、目の前の天使は心配そうに僕をのぞき込んでいた。


「大切な人と離れ離れになってしまったの?」


 幼い僕の姿をした天使が、こてんと首をかしげる。


 そうだ、僕は歌うことをやめた。あんなにも音楽を愛していた自分を殺してしまった。


 僕の両眼からはとめどなく涙があふれ出していた。


 天使はふわりと舞い上がると、両手を広げて僕を抱きしめた。


「僕のことを思い出してくれてありがとう」


 耳元で天使がささやいた。初夏の風が僕の耳たぶをくすぐる。


「僕はずっとあなたの心の中にいたんだよ。ずっとあなたを呼んでいたんだ。僕の声、聞こえなかった?」


 聞こえなかったんじゃない、耳をふさいで聞かないようにしていたんだ。


 自分の心の声だけじゃない。音楽院の先生たちが僕に対位法や作曲技法、チェンバロやオルガンのレッスンだけじゃなく、文学や詩作にまで誘ってくれているのを知っていたのに。


 いつもは笑顔を見せない寡黙なドゥランテ先生が、


「エンツォならラテン語の詩も書けるね」


 と僕を勇気づけようとしてくれたのも覚えている。


 みんな僕の、歌以外の可能性を見つけて手を差し伸べてくれていた。その手を見えないふりして振り払い、自分の殻に閉じこもっていたのは僕のほうだったんだ。


 演奏会場では歌が終わり、音楽は後奏に差し掛かっていた。


「僕は音楽の天使。僕を愛してくれてありがとう」


 小さな僕の姿をした天使は、けがれを知らない笑みを浮かべた。


「これからもずっと一緒だよ、エンツォ」


 天使が僕の手にした石盤に触れた。すると悪魔を呼び出す魔法陣はかき消え、代わりに五線譜が浮かび上がった。


「僕からのプレゼント。歌ってみて」


 天使のやわらかいほほ笑みに、だけど僕はたじろいだ。


「でも、僕、声が――」


「オクターブ下でもいいじゃない」


 天使は無邪気に笑った。


 誰に聴かせるわけでもない。目の前にいるのは僕にしか見えない幻だ。


 五線譜に書かれた曲をテノールの音域で口ずさんでみる。僕のピッチは変わらず正確だった。


 楽器のように正確なおかげで旋律を口ずさんだ途端、僕の頭の中に対旋律が思い浮かんだ。慌ててポケットから石筆を取り出し、楽譜に書き込む。


 旋律を口ずさむたび次から次へと、僕の心にフレーズがあふれ出す。


 僕は屋根の上に座って、思いつく旋律をどんどん書き留めてゆく。


 十六小節目まで出来上がって頭から歌おうとしたとき、階下の演奏会場から次の学生が奏でるチェンバロの音が聞こえてくるのに気が付いた。


「ああ、もう」


 僕はつい忌々いまいましげにつぶやいていた。もっと静かなところで作曲したい。


 石盤を脇に抱え、屋根の上に立ち上がる。階段のある所まで行こうとしたとき、こちらに歩いてくる人物に気が付いて足が止まった。


「ポルポラ先生――」


 逃げ場所はない。いつの間にか天使は姿を消している。


 近づいてきた先生は、僕の手にした石盤に視線を落とした。


「エンツォ、ここで作曲していたのか」


 先生は怒る代わりに嬉しそうな声を出した。


「あ、はい」


 僕は咄嗟にうなずいた。だがすぐに片腕を差し出し、


「先生、危ないですよ」


「お前もな」


 にやりと笑って言い返されて、僕は返す言葉もなくうなずいた。


 ポルポラ先生は僕にそれ以上、何も訊かなかった。


 屋上から階段へ続く扉を開けながら、


「また私のところに勉強しに来ないか、エンツォ。お前はセンスがある。きっと素晴らしいオペラ作曲家になるぞ」


 僕に背中を向けた先生の表情は見えない。僕は涙がこみ上げてくるのを必死で飲み込んだ。


「ポルポラ先生、ぜひまた教えてください」


「うむ」


 先生はしっかりとうなずくと、踊り場で僕を力強く抱き寄せた。


 高い声だけが音楽の翼だったのだろうか? この手にペンを握って、僕はもう一度、愛する音楽と一体となって空へ舞い上がれるのではないか。


 階段を降りながらふと窓の外へ視線を向けたとき、真っ白い天使が翼に陽光を反射させて、青空を羽ばたいてゆくのが見えた。




─ * ─




ここまで読んでいただき、ありがとうございます!

一応ここで、第三幕・完、となります。

第四幕再開までしばらくお待ちください。


本作はカクヨムコンに参加しています。読者様の尊い★で読者選考の通過が決まりますので、ぜひ応援をお願いします!

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