62、屋根の上では悪魔召喚、下では天使の歌声

「このホールのちょうど上から飛び降りようとしているのか!?」


 驚きで大きくなったハッセさんの声に、小部屋で出番を待っていた生徒たちが、


「え、誰が屋根の上に上がってるんだ?」


歌科うたかのエンツォだって!」


「なんでそんな危ないことしてるんだ?」


 口々に騒ぎながら、情報を求めて廊下へ出ていく。


 小部屋には、いま演奏中の曲が終わったら出ていかなければいけない私たちだけが残った。


 エンツォはホールの入り口に貼りだしてあったプログラムを確認し、私たちの出番をねらって姿を現したのだ。私は苛立つ心を抑えようと深呼吸した。ここで腹を立てて演奏が乱れたらエンツォの思うつぼだ。


「オリヴィエーロ」


 リオが落ち着いた笑みを浮かべて私の手を握った。あたたかさが伝わってきてホッとする。


「いま僕たちに歌える一番いい歌を聴かせよう」


 リオの愛らしい口元に微笑が浮かぶ。透明感のある頬は内側から発光するように淡い薔薇色を帯びていた。


 リオったらさっきまでエンツォのために涙を流していたのに、彼を心から追い出すことに成功したの? 私の方がよほど囚われているみたいじゃない。


 驚きが顔に出ていたのか、リオは私の手を握る指に力を込めた。


「歌おう。それが僕の選択だ。後悔しない道を選ぶんだ」


 リオは先日カッファレッリにされた話をちゃんと覚えているんだ。毎瞬、自分の意志で道を選ぼうと決めたのだろう。


 私たちの人生は思いのままにならないことのほうが圧倒的に多い。そもそも選べる選択肢が少なすぎる。私たちは生まれ落ちたときから不公平だから。ある者は富み、ある者は美しく、またある者は高い能力を有して生まれてくる。一方で何も持たずに人生がスタートする者もたくさんいる。


 それでも私たちにはわずかな自由が残されている。今日この日をどう生きるかという自由が。


 私が今エンツォに憎しみを抱くか、それとも彼のことなど意に介さずリオとのデュエットに心を浸すか、選ぶのは私。心の在り方を決める自由だけは誰にも奪えない。


「うん、リオ。音楽通やエージェントが来てるんだもんね。良い歌を――」


「オリヴィエーロ」


 リオは私を抱き寄せ、頬が触れそうな距離でささやいた。


「気負わなくていいよ。僕と一緒に歌えることを楽しんで」


 私を安心させるようにふわりと笑う。私が自分を必要以上に大きく見せようと気を張っていたのを見抜かれたらしい。


「不安になったら僕のことだけを考えてね」


 背伸びをすると、私の額に唇を押し当てた。喜びと同時に、誰かに見られたらどうしようという不安が湧き上がり、鼓動が早くなる。


 素早く周囲に視線を走らせると小部屋には誰もいなかった。皆、野次馬根性もあらわに廊下へ出て情報交換をしている。


「ホールのすぐ上って一階分教室があったよな」


「その上の屋根に立ってるらしいぞ」


「屋上に出られるほかの棟から渡ったのか? 屋根の上で演奏聴くつもりかよ」


 誰も私たちのことなど見ていない。胸をなでおろしていると、


「静かにしろって。会場の中にいるお客さんたちに聞こえないようにしゃべってくれよ」


 レーオ先生が注意する声も聞こえてくる。


 前グループの演奏が終わった途端、ハッセさんが急いで戻ってきた。私とリオはもちろん、もう抱き合っていないし手もつないではいない。


 会場から観客の拍手が聞こえる中、ハッセさんは壁にかけられた鏡の前に直行する。首元のジャボを直したり、かつらの具合を確認したり、袖からのぞく手首のレースを整えたりと慌ただしい。


 演奏を終えた上級生たちがぞろぞろと小部屋へ入ってきた。チェンバロと複数の弦楽器、さらにリコーダーまで加わったアンサンブルだったから人数が多いのも当然だ。だがこれで全員ではない。ステージ上にはリコーダー奏者とテオルボ奏者が残っている。私たちのデュエットに加わってくれるのだ。


 私とリオは見つめ合い、小さくうなずいた。いつの間にかうしろに立っていたハッセさんが私たちを抱きしめる。


 やり切った顔をした上級生たちから、


「頑張ってな」


 と見送られ、私たちは会場に出て行った。


 頭上でシャンデリアがきらめく舞台に立つと、拍手に混ざって観客たちが、


「あれが噂のハッセ氏か。お手並み拝見と行きますかな」


「ザクセン人でしょう? いかがなものか」


 などと雑談しているのが聞こえる。やはりハッセさんに注目が集まるのか。


「そう言うが君、十五年以上前にもいたじゃないか。ザクセン人の良い作曲家」


「ああ、ヘンデル氏だな。今は連合王国にいるとか」


 会場は人が多く、熱気がこもっている。開け放した窓から時折り風が舞い込み、長いカーテンをふくらませた。


 私とリオは並んで立ち、チェンバロの方を振り返る。椅子に座ったテオルボ奏者も、吹き口をくわえたリコーダー奏者もハッセさんとうなずきあう。


 緊張の糸がピンと張った次の瞬間、音楽が始まった。


 リズミカルなチェンバロに乗って、リコーダーの奏でる優雅な旋律があふれ出す。一度聴いただけで口ずさみたくなる親しみやすさが、ハッセさんの書く曲の特徴だ。彼の曲を練習し始めてから、食事中でも寝る前でも頭の中で回り続けていたメロディを、私は歌い出した。




─ * ─




いよいよオリヴィアとリオ、デュエットでの本番が始まりました!

しかし屋根の上には悪魔召喚の代償に飛び降りようとしているエンツォが――。

最後まで無事、歌いきれるのか!?

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