63、リオとオリヴィア、デュエットで舞台に立つ

 リズミカルなチェンバロに乗って、リコーダーの奏でる優雅な旋律があふれ出す。一度聴いただけで口ずさみたくなる親しみやすさが、ハッセさんの書く曲の特徴だ。彼の曲を練習し始めてから、食事中でも寝る前でも頭の中で回り続けていたメロディを、私は歌い出した。


「君が僕を見つめる

 その視線はまるで――」


 ポルポラ先生のオリジナル曲ではソプラノから始まっていたが、ピッチの安定している私から入ることとなったのだ。


 ハッセさんの伴奏は右手で和音を重ねていくスタイルのため左手が聞こえにくいのが難点だったが、テオルボがベースラインを弾いてくれるおかげで、それも解消して歌いやすくなった。


「――クピドがつがえる愛の矢」


 リオが何度も練習したメッサ・ディ・ヴォーチェを駆使して高い音域から舞い降りてくる。その純粋な美しさに私は心を震わせた。感動を声に乗せて自分のパートを歌う。


 私たちは視線こそ客席に向けたままだったが、心の中で手をつなぎ見つめ合い、声を重ねた。


「ほほ笑みと共に飛来して

 僕の心を捉えて離さない」


 私たちの声が三度の音程を保ってぴったりと重なり、まるで一つの楽器のごとく自在に空間を泳いでゆく。演奏者にあまり音が返ってこない会場とはいえ、お客さんたちの視線が私たちに集中しているのを肌で感じると、伝えたい思いがあふれてくる。


 聴いてくれる人がいることが、何よりもの喜びだ。


 ホールの外では先生や生徒たちがエンツォのせいで忙しく動き回っているはずだが、会場内は情報が遮断され、美しい音楽が満ち溢れていた。


 最初のA部分が終わって間奏に差し掛かると、


「ほう、これは美しいハーモニーですな」

「なんだか空気が清浄になって、心が洗われるようではないか」

「私は胸のあたりがあたたかくなって心が愛に満たされてゆくわ」


 恍惚とした観客たちが口々にささやきあうのが聞こえてきた。


 リコーダーが奥ゆかしい音色で主旋律を奏でる。こずえを渡る風のように心地よい響きが、妖精たちが舞い踊る絵画の世界へと聴く者の心をいざなうようだ。


 だが声を出していないと少しずつ緊張が強くなってしまう。でも私の隣にはリオがいる。大好きなリオと一緒に歌える喜びに意識を向けよう。


 間奏が終わると私とリオは同時に息を吸った。


「いとしい君のまなざしが

 僕にそそがれたあの日から

 恐れることはただ一つ」


 同時に歌い出した二人の声が、やがてほどけてそれぞれの旋律を奏で出す。私が中音域で長い音符を伸ばしている間に、リオが高い声で光の粒をまき散らすかのようにこまやかな旋律を歌う。


 離れていた二本の糸はまた近づき、やがて重なった


「君との別離だけ」


 今度はリオがメッサ・ディ・ヴォーチェを歌う間に、私がソプラノの旋律を飛び越え高らかに歌い上げる。


「どうかいつまでも

 君の魅力的な瞳の中に」


 何度も練習した高音が、宗教画に描かれた聖人の後光ニンブスのように私の後頭部から頭上へ放たれていった。リオにとってはいつでも出せる中音域に過ぎなくても、私にとっては鍛錬の果てにようやく手にした声だ。


 やがて二人の声はまた三度音程を保ち、B部分最後のフレーズを締めくくる。


「僕を捉えて離さないで」


 二人で何度も声を合わせるうち、私たちはリタルダンドだけではなくトリルの速さまで完璧に合わせる術を身に着けた。


 私とリオの声が虚空にとけ消えるタイミングで、テオルボ奏者が味わい深いフレーズを即興した。彼と合わせた二度のリハーサルでは聞いたことのない洒落たアルペジオだ。本番の高揚感が彼にひらめきを与えたのだろう。


 一瞬、音楽が止まった静寂の中で、外から誰かの嗚咽が聞こえた気がした。


 ――エンツォ?


 疑問が頭をかすめたときには音楽が再開し、楽器の三人が前奏のフレーズを変奏して聞かせていた。


 ポルポラ先生のオリジナルでは三つの部分に分かれ次々に展開していく曲だった。だがそれをハッセさんは現在大流行のダカーポ形式に書き換えたのだ。ダカーポ形式のアリアでは繰り返されるA部分で楽器奏者も歌手も即興的に変奏を披露する。


 私とリオはまだ即興なんてできないので、事前に変奏を書いて、それをレーオ先生に添削してもらった。対位法の授業で協和音程と不協和音程について習ったのが役に立った。


「君が僕を見つめる

 その視線はまるで――」


 レーオ先生の手が入ったとはいえ、頑張って自分でアレンジしたフレーズを披露できるのはこんなに嬉しいものなんだ。


「――クピドがつがえる愛の矢」


 リオの透明感あふれる歌声に、最前列のお客さんがまぶたを閉じて聞き入っているのが見える。優しさに満ちたリオの歌声は、誰の心にも等しく光を届けるだろう。 


「ほほ笑みと共に飛来して

 僕の心を捉えて離さない」


 私たちは最後のフレーズを、声をそろえて大切に歌った。細心の注意を払ってトリルを成功させた直後、私は自分の両足がしっかりと舞台に立っていることを再確認した。大丈夫、まだ私たちは生きている。火山が噴火した音は届いていないし、外から誰かの悲鳴が聞こえたりもしていない。


 華やかな後奏が終わると、お客さんたちは拍手喝采で私たちをたたえてくれた。


「ハッセ氏の曲は実に優雅でしたな」

「軽やかで明るくて気持ちがよいわ」


 身なりのよい男女が拍手をしながら感想を言い合うのが聞こえる。


 チェンバロの椅子から立ち上がったハッセさんと、椅子に楽器を置いたテオルボ奏者も前へ出てきて、五人は並んで礼をした。


「歌手の二人、まだ幼いのになかなか表現力があるな」

「うむ。テクニックはこれから勉強すればよいからな。これほど心に訴えかける歌を歌うなんて将来が楽しみだ」


 ざわめきの中に私たちへの評価も聞こえて心臓が跳ね上がる。


 テオルボ奏者とリコーダー奏者がハッセさんに向かって拍手をしたので、私とリオも慌てて真似して手をたたいた。するとハッセさんも客席に私たちを紹介するように、手のひらを上に向けるジェスチャーをしてから拍手をした。こんなふうに互いに称え合うなんて、レーオ先生から聞いてないよ! 客席に向かって頭を下げたらすぐに帰っていいって教えられたのに!


 私とリオが挙動不審になってしばらくしてから、ようやく私たちのアンサンブルは退場できた。


 小部屋に戻ると、ハッセさんが両手を広げて私とリオを抱きしめた。


「よかったよ、二人とも!」


 テオルボ奏者のお兄さんがケースに楽器を収めながら、


「初めてのデュエットなんだろう? 堂々としていて素晴らしいよ」


 と褒めてくれた。リコーダーの先輩も布で楽器を手入れしながら、


「君たちの声が重なると、空気の震え方が変わるんだ。客席もみんな、気持ちよさそうにしていただろ?」


 少し不思議なことを言った。


 会場ではすでに次の曲が始まったようだ。


「中で聴きたいけど席あいてなかったよね」


 私がリオに話しかけると、


「第一部までは結構あいていたみたいだけど、今は満員だね」


 テオルボ奏者のお兄さんが答えた。


「最後にカッファレッリが出るからじゃん?」


 リコーダーの先輩の言葉にリオが不安そうな顔をする。


「最後までできるのかな……」


「あ、エンツォ」


 私はあいつの暗い顔を思い出して、本番後の高揚に水を差された気分になった。


「そういえば屋根の上にいたっていう学生、どうなったんだろう?」


 ハッセさんが廊下に出たので私たちもそれに続いた。




─ * ─




さて、屋根の上にいたっていうエンツォはどうなったんでしょう?

演奏中に外から聞こえた気がする嗚咽は――?

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