64、悪魔が去った理由

「そういえば屋根の上にいたっていう学生、どうなったんだろう?」


 ハッセさんが廊下に出たので私たちもそれに続いた。


 心配そうに右往左往している学生たちの中から、ぽっちゃりくんが駆け寄ってきた。


「リオネッロ、オリヴィエーロ、お疲れ! すっごい綺麗にハモってたよ!」


「ありがとう」


 とりあえず礼を言ってから、この情報通にエンツォのことを尋ねようと口を開きかけるも、


「デュエットうまいね。難しいでしょう? 一人ずつ歌ってるより二人一緒に歌った方が綺麗に響くってすごいことだよ」


 ぽっちゃりくんのおしゃべりは止まらない。


「エンツォがどうなったか知ってる?」


 めずらしくリオが遮って尋ねた。


「あ、それね。ポルポラ先生がエンツォを説得しに屋上へ上がって行った」


「先生が!? 危険だよ!」


 リオが声を高くし、


「なんで先生自ら――」


 私も自然と眉根に力を込めていた。


「それにポルポラ先生、音楽院の教師は引退してるはずなのに、今日ここにいたってこと?」


 誰に尋ねるとでもなくつぶやいた私に、


「オリヴィエーロたちの歌を聴きに来たんだよ。いや、あのチェンバロ弾いてたザクセン人を見に来たのかな? まあ最後に教え子のカッファレッリも出るしね。とにかく二人のデュエットが終わったらすぐ屋上に上がって行ったよ」


 ぽっちゃりくんが早口でまくしたて、状況を教えてくれた。


「先生が心配だ。オリヴィエーロ、僕たちも屋上へ行こう」


 リオが私の手を引く。うなずいてリオと二人、屋上に出られる階段のある棟へ向かって駆け出した。


 だが私たちの足は中庭に降りたところで止まってしまった。向こうからポルポラ先生が誰かと談笑する声が聞こえてきたからだ。


 強い日差しを遮るナツメヤシの葉の下で立ち尽くす私とリオに、ほかの先生や生徒たちも追いついてきた。


「どうしたんだい?」


 隣に立ったハッセさんが、心配そうに私たちを見下ろしたのが分かる。


「あれ、エンツォなの?」


 私は思わず虚空に向かって問いかけていた。ポルポラ先生と並んで歩いているのは、はにかむような微笑をたたえた好青年だった。陶器のように白い肌の上で、色素の薄い髪が日差しに透けている。彼の笑い声はやわらかいテノールで、初夏の風に乗って私たちの耳元まで運ばれてきた。


「エンツォが、笑ってる」


 リオも驚きを隠せない。遺書のような、いやむしろ挑戦状のようなあの手紙と、目の前でほがらかに談笑する美青年は全くかみ合わなかった。


「会場が満員だったから屋根の上で演奏会を楽しんでいたのかな」


 手紙のことを知らないハッセさんが平和な予測を立てる。


「いや、まさか」


 何か言いかけて、慌てて言葉を飲み込んだのはレーオ先生だ。


「心配しないでくれたまえ」


 ポルポラ先生は大仰な笑みを浮かべて声を張った。


「エンツォくんは屋上で作曲をしていたんだ」


 さすがにそんな嘘は無理がありますよ、と言いたそうな顔をするレーオ先生に対し、事情を知らないハッセさんや数人の学生は、


「天気いいからな」

「暑そうだけど」

「ったく人騒がせな」


 興味なさそうに建物の中へ戻っていく。


 立ち尽くす私たちに証拠を示そうとしたのか、ポルポラ先生はエンツォに、


「見せてもらっていいかな」


 と尋ねた。


「あ、はい。まだ途中なんですが」


 エンツォが手にしていた石盤をポルポラ先生に渡す。


「ほら、これがエンツォくんの最新作だよ」


 ポルポラ先生が私たちに見せた石盤には、確かに五線譜が書かれていた。


「ハハハ、屋上で作曲したくなるなんて君はさすが芸術家だ」


 ポルポラ先生は笑いながら、エンツォの細い肩を力強く抱き寄せた。照れ笑いするエンツォの頬はわずかに上気し、瞳には生き生きとした光が踊っている。闇一色だったエンツォの目はどこに行ったのか。今の彼からは、悪魔に関わっている者が放つ異様な気配は微塵みじんも感じられない。


 確かアンナおばさんも私とリオが庭で歌ったあと突然、聖なるメダルに触れられるようになったのだ。


「あ、まさか――」


 私は一つの仮説にたどり着いた。私とリオが二人で声を重ねたときだけ、奇跡が起こるのかも知れない。今夜リオと二人きりになったら打ち明けてみよう!




─ * ─




本日はあと2話、UPします!

だってここまでじゃあエンツォに何が起こったのか、分からないですからね。

次回はエンツォ視点で、『神童と呼ばれたすえに』となります。


明日の昼(11時59分)までが読者選考期間なので、きりの良いところまで行きますよ!

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