65★神童と呼ばれたすえに(エンツォ視点)

 ◆エンツォ視点◆




 僕はナポリ王国の都にほど近い村で、農家の四男として生まれた。幼いころから美しいものが好きで、格闘ごっこをして遊ぶ兄たちより、シロツメグサを摘んで花かんむりを編む姉たちと過ごす方が好きだった。


 だが僕の心を何よりも捉えたのは、教会に鳴り響くパイプオルガンの荘厳な音色だった。幼い僕は圧倒され、その美しさに強く惹きつけられた。この神秘についてもっと知りたい、できれば一つになりたい、そう願って手を伸ばす僕が、聖歌隊の練習にのめり込んでいったのは自然なことだったろう。


 僕は教会音楽に関することならなんでもよく覚えた。音名や階名だけでなく、歌詞を理解するのに必要な文字の読み書きまで。僕の村では大人でも字を書けない人もいたから、子供ながらアルファベートをマスターした僕は神童と呼ばれてもてはやされた。


 僕に勉強を教えてくれたのは教会の聖歌隊指導者だった。彼はナポリの音楽院を卒業した男性ソプラノで、自分の旧友たちがどれほど活躍しているかを度々たびたび語って聞かせた。


 初めのうちこそ目を輝かせていた僕も、しばらくすると気が付いてしまった。彼自身はオペラの舞台で主役を務めたこともなく、かつての同僚たちがヨーロッパ各地の劇場や宮廷で活躍しているあいだも地元の教会で子供たちに歌を教え、ミサでソリストを務めるくらいしかしていないことに。


「エンツォ、主は君にあらゆる才能を授けた。君の声は美しく、発音も完璧だ。ピッチも正確で、歌手になるための全てを持っている」


 聖歌隊指導者に持ち上げられ、僕は有頂天になった。


「君が歌手になれば私の旧友たちのように国内外で活躍し、名誉と財産を手にするだろう」


 彼の当てにならない予言は僕だけでなく、僕の両親をも舞い上がらせた。


「先生に息子を託してよろしいのでしょうか?」


 それでも父が一抹の不安を残していたのは、男性ソプラノ歌手がどのようにして作られるかを知っていたからだ。


「任せてください。私の音楽院時代の友人に、ニコラ・ポルポラという優秀な音楽家がいます。彼は声楽教師としても名を馳せている。まずは彼に息子さんの声を聴いてもらいましょう」


 彼はポルポラ先生に手紙を書いてくれた。やがて返事が届き、僕は聖歌隊指導者と共に王都まで赴くこととなった。


 ポルポラ先生の前で歌い、ソプラノの美声だけでなく真面目な人柄を備えていること、すでに読み書きを習得していることなどが評価され、素晴らしい歌手へと育つに違いないと断言された。


 村へ帰った僕たちから話を聞いた両親は、


「それでは息子をお願いします」


 覚悟を決めたような顔をしていた。意味の分からない僕に聖歌隊指導者は、


「君の声を汚くする悪いものを取ってしまわないといけないんだ」


 と説明した。


「安心しなさい。私も子供の頃に同じ道をたどったが、今もこのように健康だ」


 彼はナポリ音楽院時代に世話になった後見人に手紙を書き、秘密裏に処置をしてくれる外科医の情報を得たらしい。


 二度と後戻りできないと分かったのは、ワインにアヘンを混ぜた麻酔薬から目が覚めたあとだった。アヘンチンキの影響が残る朦朧もうろうとした意識の中で、僕は自分の将来について考えていた。もし名歌手になれなければ、僕をここへ連れてきた聖歌隊指導者のような負け犬になるのだと。


 まずは音楽院に入らなければ未来はない。だから僕は音楽院の院長に入学させてほしい旨、嘆願書を書いた。入学前からすでにイタリア語でもラテン語でも完璧に文章を書けたのが奏功したのか、僕は無事入学を許され、ポルポラ先生の弟子になった。


 ポルポラ先生には学校外で個人的に教えている弟子もいた。それが貴族の血を引くカルロ・ブロスキ――のちにファリネッリと呼ばれる男だった。僕より三歳くらい年上の彼は少年ながら、すでにスターとしてナポリの人々の喝采を博していた。


 数年学べば彼に追いつけると信じていた僕の希望的観測は、やがて打ち砕かれることとなる。小さな村で神童と持ち上げられても、才能ある少年たちが集まった王都ナポリでは、僕など少し優秀なだけの普通の子供にすぎなかった。


 次々と新しい生徒が入ってくる環境で、僕は追いつかれないように必死で勉強していた。だが僕は次第にソプラノの声を失い、アルトパートを任されるようになっていった。


 ファリネッリが華々しいデビューを飾るのと時を同じくして、非常になまいきな後輩ができた。早々に自分でステージネームなど考えてカッファレッリと名乗りだしたガエターノだ。


 カッファレッリは素行こそ悪かったが、瞳に意志の炎を燃やしていた。ポルポラ先生の興味がカッファレッリに移っていくのを感じる。僕は焦燥感にさいなまれ、あいている時間の全てを歌の練習につぎこんだ。


 だがなんて無慈悲なんだろう。


 数ヵ月が経つ頃には、もはやアルトの最高音さえ喉が締まるようになっていた。たゆまず努力を続けてきたのに、なぜ神様は僕から声を奪うのか? 積み上げてきた技術が一つ一つ失われていくのを、僕はただ呆然と立ち尽くし眺めていることしかできない。


 高い声を失った僕はもはや、翼をもがれた天使だった。歌えないことを考えると苦しくて、食事も喉を通らなくなった。


 ある日、ついにポルポラ先生は僕に現実を突き付けた。


「エンツォ、大変残念だが我々は歌以外の道を探るべきだろう。私は君に対位法の極意を授けようと思う」


「無責任なことを言わないでください!」


 僕はかすれた声で叫んだ。


「あなたが歌手になれると太鼓判を押したから、両親は僕を手術台に送ったんだ! 去勢されたこの体で、歌手以外に道があると言うんですか?」


 ポルポラ先生は唇を噛み、頭を下げた。


「すまない。声を失うなんてことは、ごくまれにしか起こらないはずなんだ」


「でもナポリの教会はどこも、大して歌えないカストラートが聖歌隊にいますよね?」


 声を失わなくとも美声に育たなかった者たちはたくさんいる。僕はナポリに来てから音楽界の闇を見てきた。


「君がああならないことは私が保証した。君は勉強熱心だし、耳もよく、美しい声を持っていた」


「その声はもうないんです!」


 首をしめられた鶏のような声で叫ぶ僕と、先生は目を合わせなかった。


「エンツォ、だから歌以外の学びを深めよう。君はチェンバロもオルガンも弾けるし、即興演奏もプロ顔負けだ。これまで必死で学んできたのだから間違いなくよい声楽教師になれる。文学にも通じているから台本作家にだってなれるだろう」


「そんなの、そんなのは――」


 僕は震える声を絞り出した。


「僕が失ったものの埋め合わせになんかならない!」


 地元の情けない聖歌隊指導者よりみっともない負け犬になるのかと思うと、膝ががくがくと震えた。


「結局先生は見誤ったんですね。僕の未来を間違えて、僕や両親に期待を抱かせて、僕の人生をめちゃくちゃにしたんだ!」


 ポルポラ先生は否定しなかった。


「私が君にできることは、君が今もまだ持っている才能を伸ばす手伝いをすることだけなんだよ」


 教室を出ていくとき、先生は一言つぶやいた。


「なんてもったいないんだ」


 その意味が、僕には分からなかった。


 翌週、ニコラ・ポルポラは辞表を出し、音楽院から去って行った。




─ * ─




きついところで切って申し訳ない!

続きも今日中にUPします!

次回『音楽の天使からの贈り物』、引き続きエンツォ視点です。

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