72、芸術なのか、見世物なのか?

 舞台上では兜から派手な羽根飾りを垂らした男性ソプラノが、大げさに両手を広げていた。仰々ぎょうぎょうしい仕草に私は辟易へきえきしたが、そんな思いは彼の声を聞いた途端、ちりのように吹き飛んだ。


「なんと心地よい風、

 なんと美しい昼下がり」


 チェンバロの分散和音アルペジオに導かれ、レチタティーヴォを歌い出した彼の声は瑞々みずみずしく甘い響きに満ちていた。


「木の葉も陽射しに輝いている」


 心を潤すソプラノの歌声に陶然とうぜんとなった私はもう、異様に伸びた彼の身長も気にならない。


 手術の影響なのか、彼らの中には驚くほど高身長になる者や、若いうちから規格外に太ってしまう者が多く見られる。だが一方で、華奢で愛らしい姿を保ったままの者もいる。


 リオはどんな大人に成長するんだろう? 今はまだ私と変わらない背恰好のリオを、私はちらりと盗み見た。


 チェンバロが不協和音を奏でると、舞台上の歌手は両手のひらを自分の胸に向け、悲痛な面持ちで歌った。


「だが私の心は千々ちぢに乱れ、

 恋の悲しみに引き裂かれている」


 歌声は翳りを帯び、内省的な暗い響きを伴う。音量を落としたはずなのに彼の声は依然として、舞台袖に立つ私の耳にもビリビリと響いてくる。


 一体どんなテクニックを使っているんだろう、などという思考は、彼の歌声にほとばしる感情の奔流に押し流された。


「砕かれた心の欠片かけらを彼女に送ろう」


 歌手はもったいぶった手つきで、衣装の鎧にしまっていた手紙を取り出した。人差し指と親指で挟んだそれを無駄に振り回して観客に見せびらかしたあとで、


「小姓よ、この手紙をあの美しいひとに届けてくれ」


 うしろに控えたカッファレッリを振り返ることなく、手紙を突き出した。後方を見ないのはつねに観客に向かって声を届けるためかも知れないと、私は思い直したが、それでも気障きざな仕草が鼻につく。


はいスィ旦那様シニョーレ


 カッファレッリは唯一のレチタティーヴォセリフを美しく歌うと、手紙を大切そうに受け取って、私がいるのとは反対側の舞台袖へと下がって行った。


 舞台にひとり残された第一男性歌手プリモウォーモは芝居がかった仕草で右手を斜め上に伸ばし、


「私の心はあなたのこと以外考えられないというのに、

 私の体は白馬に乗り、栄光のために戦場へ赴くのだ」


 堂々と歌い上げた。


 彼のレチタティーヴォが終わるのを合図に、オーケストラピットの奏者たちが楽器を構えた。チェンバロの前に座ったポルポラ先生が首を振り、アリアの前奏が始まった。弦楽器が支える和声の上で、トランペットが華やかなフレーズを奏でる。


 輝かしい音色に誘われるように、閉ざされていたボックス席のカーテンが開いていく。事前に台本が売られているから、観客たちは第一男性歌手プリモウォーモのアリアが始まると分かっているのだ。


 歌手が一歩前に出て、ニ長調のきらびやかなアリアを歌い始めた。


「トランペットがファンファーレを奏で、

 戦の始まりを告げると、

 私の心に火が灯る。

 あなたを想う恋の炎が燃え上がる」


 力強い歌声に私は息をするのも忘れ、微動だにせず聴き入っていた。


 どういうわけか私の頭によぎったのは、風の強い日にナポリの海へ入った記憶。大波が全身を襲い、大自然の迫力に圧倒された。


 そう、彼の歌声は躍動する海のごとく活力にあふれているんだ。


「私の心に火が灯る。

 あなたを想う恋の炎が燃え上がる。

 この身を焦がして、私は恋の戦場に飛び込むのだ」


 いやいや現実の戦に出陣するのに、なんで恋の戦場だよと突っ込みたくなる歌詞だが、貴婦人方には古代の英雄や十字軍の騎士が恋に心を乱す姿が喜ばれるらしい。


 男性主役は長いオペラ一作を通して恋に悩み、別離を憂い、繊細なアリアを歌い続ける。優雅な詩には英雄らしさなど欠片も見当たらないが、台本の役柄紹介には確かに「十字軍遠征で大活躍した騎士」などと書かれている。目の前の歌手は、台本だけ読んだら指を差して笑いたくなるような矛盾を易々やすやすと乗り越え、歌声の魔法で屈強なヒーローを具現化して見せていた。


 一度歌詞を通して歌うと、また同じ歌詞が繰り返される。だが今回はfiammaという単語に華麗なアジリタが当てられていた。セレナータのリハーサルを見学させてもらったとき、ファリネッリの超人的なアジリタを聴いたから驚きはしない。ファリネッリのほうが若いのに、見事に粒がそろっていたし、非の打ち所がない繊細な芸術品だった。


 だが今歌っている歌手のアジリタは幾分か処理が雑に聞こえても、かえってそれが挑むような曲調に合っていてかっこよい。


 間奏になるとまたトランペットが活躍する。


 そしてB部分は打って変わって三拍子となり、調性も短調に転調した。


「だがあなたは不当な厳しさで

 私を罰し、拒絶する。

 矢のような視線よ、

 もう一度、私を導く光となっておくれ」


 男性ソプラノが切々と訴えかけるように歌うと、ボックス席からは貴族女性のすすり泣く声が聞こえてきた。


 私とリオは思わず顔を見合わせる。リオの顔にも、そこまで? と書いてあるようだ。涙を流すほどの要素があっただろうか? 彼の声量は素晴らしく、威風堂々とした歌い方には説得力があるが、泣かせる歌ならカッファレッリのほうが上手うまそうだ、などと生意気なことを考える。


 だが声量があるということは、それだけで聴く者に強い印象を与えられるのだと私は学んだ。


 B部分を締めくくる前に、歌手は長々と装飾を披露した。オーケストラは皆、演奏を止めて歌手の気が済むまで待っている。


「あんな華美な装飾、合わないわ。このアリアのB部分は悲しみの発露なのに」


 ささやく声が聞こえて、私は思わず振り返った。先ほど私が日傘をさしかけていた第一女性歌手プリマドンナが腕組みをして立っていた。すぐに自分の出番だから楽屋へ戻らずに舞台袖で待機していたようだ。


「まったくあの歌手、自分の技量を見せびらかすことしか考えていないのよね」


 彼女はあざけるように言い放った。舞台上では恋人同士を演じていても、一歩舞台から降りればライバルなのだ。


 また華やかなトランペットの前奏が戻ってきて、繰り返しダ・カーポのA部分が始まった。


 第一男性歌手プリモウォーモは自信たっぷりに舞台前方に出ていくと、もともと装飾的だったアリアをさらに飾り立て、頭の羽根飾りを揺らしながら超絶技巧を思う存分披露した。


「趣味が良いとは言えないわね」


 第一女性歌手プリマドンナは相変わらず不機嫌だ。彼女の言葉にも一理ある。ポルポラ先生が書いた元のメロディの方が綺麗だった。だが脇幕の間からこっそり客席をのぞくと、ほとんどの観客が興奮した面持ちで身を乗り出している。


 プロが好む美しい音楽と、愛好家である観客たちが喜ぶ音楽は異なるのかも知れない。限界まで音符が詰め込まれたアクロバティックな歌唱を、観客は名人芸として賞賛するのだ。装飾過多な音楽が、たとえ純粋で美しい旋律を塗りつぶしてしまうとしても。


 私たちが作り上げているのは芸術なのか、見世物なのか、どちらなのだろう?


 思索を巡らせているうちにアリアは終わり、後奏を弾くオーケストラを残して歌手は舞台からける。割れんばかりの拍手と歓声が劇場中を渦巻き、駆け巡った。


「ブラーヴォ! もう一度ビス!」


 誰かが叫び、アンコールを求める声が次第に大きくなる。


 驚いたことに舞台袖に下がった歌手が、もう一度姿を現した。


 私たちのうしろでわざとらしい溜め息が聞こえる。第一女性歌手プリマドンナがこれ見よがしに肩をすくめていた。


「待ちくたびれちゃうわ」


 そして舞台上では、今歌ったばかりのアリアが再び繰り返された。B部分で観客がまた涙を流したのはさすがに滑稽で、私とリオは笑いをこらえていた。




─ * ─




次回『舞台の成功と、次なる出演依頼』

劇場での役目をそつなくこなした二人に、次なる依頼が舞い込むようです。

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