71、二人が初めてオペラの舞台に立った日

 劇場稽古を繰り返すうちに、私は舞台でもリラックスして過ごせるようになっていた。


 だが公演当日、すべてのロウソクに火が灯されると、その華やかさに圧倒された。シャンデリアに並び立つ無数のロウソクが天井画を照らし出し、五階まであるボックス席も壁掛け燭台の明かりにきらめいている。


 ボックス席には着飾った貴族たちがひしめき、女性たちの宝飾品が照明を反射したかと思えば、白い指先が操る扇が軽やかに舞う。


 一方、平土間席プラテーアに集うのはチケットを買って入場したナポリ市民たちだ。


「すごいね。これがオペラなんだ」


 小姓の衣装に身を包んだ私とリオは、並んで舞台袖から客席をのぞいていた。


「そろそろ楽屋へ戻るよ」


 兵士役の衣装を着たサンドロさんに声をかけられる。彼はたびたびオペラの合唱を経験しているからか、普段と変わらず落ち着いていた。


 客席とは打って変わって装飾のないランプに照らされた舞台裏には、劇で使う大道具が不規則な影を作っている。使い古された大きな机の上には、演目で使うトロフィーや手紙、月桂樹の冠などが無造作に並べられていた。


 出演者になったからと言って舞台袖でプロの歌を堪能できるわけではない。舞台袖や舞台裏は出演者が出たり入ったりする導線で、用もない合唱歌手がぼんやりと立っている場所ではないのだ。


 私たちは出番が来るまで楽屋に詰め込まれて待つこととなった。


 緊張しているのは私やリオなど歳の幼い生徒だけ。カッファレッリを始め上級生の幾人かは、夏に修道院で催される音楽劇にも出演するから、宗教劇の楽譜をひらいて何やら打ち合わせをしている。


「ボクたちも何年かあとには、ああいう舞台にも出演できるかなぁ」


 私は隣に座るリオに話しかけるでもなく一人ごちた。


 まさかこの宗教劇にも合唱の一員として駆り出されるなんて、このときは思ってもいなかったのだ。


 突然ざわめきがやんだと思ったら、廊下に続く扉が開けられ劇場の人が立っていた。


「小姓役の三人は次のシェーナが出番ですから舞台袖に降りてください」


 進行役の男性にうながされ、私とリオ、それからカッファレッリは楽屋を出て階段を降りた。私とリオは歌もセリフもない黙役なので、声ではなく背恰好や年齢で選ばれたのだろう。


 舞台裏に着くと力強いアルトの歌声が聴こえてきた。


「彼はセコンドウォーモだよ」


 と隣を歩くカッファレッリが教えてくれる。


 セコンドウォーモとは二番手の男性歌手という意味だ。プリモウォーモと呼ばれる一番手の男性歌手ほど上手ではなく、アリアの数も報酬も少ないという。


 舞台袖まで来ると、裾の広がった舞台衣装を着た体の大きな歌手が、威風堂々と声を張り上げているのが幕の間から見えた。彼ももちろん去勢歌手カストラートだ。劇場でも教会でも貴族たちの私的なサロンでも、どこでも彼らが活躍しているのだから驚きだ。


 舞台稽古に参加してようやく私は、声変わりしてしまった男性歌手に、音楽界は決して価値を見出さないという事実を理解した。スターになるのも莫大な報酬を受け取るのも、男性であれ女性であれソプラノとアルトだけ。私とリオをナポリに連れてきたジャンなんとかが、自身の変声を絶望的に捉えていた理由も今なら分かる。


 アリアが終わり、喝采というほどではないにせよ拍手をもらって、アルト歌手は舞台袖に戻ってきた。彼は間近で見るとかなりの巨漢で、私はつい希少な生物でも眺めるように見上げてしまった。彼は私になど目もくれず、楽屋の方へ去って行った。


 シンプルな旋律線の後奏が終わりに差し掛かると、私たちの前で待機していた女性歌手二人が舞台に出ていく。練習通り私とリオもそれぞれ彼女たちについて、小道具の日傘を手に舞台へ出た。奥行きの広い舞台の真ん中あたりに下がった書き割りには、豪華な中庭の情景が描かれている。


 舞台前方に並んだロウソクが私たちを照らし出す。いま私は、念願だった舞台に立っているのだ。


 だが不思議なほど感慨はなく、足の下に感じる木の床も練習のときと変わらなかった。夢は現実の延長線上で、当たり前のように叶ってしまった。


 いや違う。私の夢は主役を歌うこと。まだスタート地点に立っただけなんだ。


 この公演のためにウィーンから戻ってきたポルポラ先生がチェンバロを奏で、王宮の中庭を舞台に姉妹の語らいが始まった。


「あの人の心は変わってしまった。誠実だった彼は、もうどこにもいない」


「なんて憐れなお姉様」


 ベンチに座ってレチタティーヴォを演じる二人のうしろで、私とリオは日傘を持って立っているだけ。客席を盗み見ると、ボックス席の貴族より平土間席プラテーアの庶民の方がずっと劇に集中している。彼らは一回ずつチケットを買って入場しているから当然か。


 貴族たちはボックス席を年間契約しているそうだ。舞台ではなく向かいの席ばかり眺めている男がいるかと思えば、お目当ての人物を見つけたのか自分のボックス席を出て、知人を訪問する者もいる。


 公演中もロウソクの火は焚かれたままだから、客席の様子がよく見えた。だから見られたくない者はボックス席のカーテンを閉めているのだ。中では何が行われているんだろう?


「お姉様、あちらからいらっしゃる殿方は騎士様ではなくて?」


 妹役のレチタティーヴォを合図に、姉妹役の二人が立ち上がる。


「まあ大変、隠れましょう!」


 二人は私とリオから日傘を受け取り、慌てた様子で舞台から去ってゆく。小姓役の私とリオは、姉妹が身に着けた長いスカートの裾をつまんで二人のあとを追う。


 私たちが舞台袖に隠れる前に、反対側の袖から主役が登場した。オペラの花形、第一男性歌手プリモウォーモだ。


 彼に付き添って姿を現したのは、小姓の恰好をしたカッファレッリ。舞台用の表情をしているせいだろうか? ついさっきまで一緒にいたのに、私は彼の美少年ぶりに息を吞んだ。生き生きとした瞳に紅をいたように赤い唇、均整の取れた体つき――悔しいほどに圧倒的な美少年だ。


 私は自分の出番が終わって安堵するのさえ忘れて、幕の向こうに見える舞台を凝視していた。私もあんなふうに、歌わなくても舞台姿だけで見る者を惹きつけたい。 


 決意を新たにしていたら、すぐうしろで誰かが腰をかがめ耳元でささやいた。  


第一男性歌手プリモウォーモのアリアだけ聴いていくといいよ」 


「ありがとうございます」


 リオがすぐに礼を言った。振り返ると進行役のスタッフが声をかけてくれたのだと分かった。私たちが音楽院の学生だと知って、勉強になるだろうと配慮してくれたのだ。劇場の人たちも私たちを育てようとしてくれているのを感じる。


 私とリオはありがたく、一場分ウナ・シェーナだけその場に残ることにした。



─ * ─



次回『芸術なのか、見世物なのか?』

第一男性歌手プリモウォーモのカストラート歌手が、レチタティーヴォとアリアを披露します。

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