03、聖歌隊で歌えるのはリオだけ

「今リオが歌ってた聖歌、なぜか聞いたことあるの」


 並んで畑仕事をしながら、私は母さんが同じメロディーを口ずさんでいたと打ち明けた。


「母さんは旅芸人の一座が歌ってたから覚えたって言ってたんだけど、でもリオが歌ってたのとは歌詞が全く違うんだ」


 母さんが歌っていた曲は気軽なラブソングだった。


「替え歌なんじゃないかな?」


 リオは首をかしげながらも説明してくれた。


「僕が歌ってたのは『グローリア』だよ」


 ということは、やっぱりミサ曲なのだ。


「ナポリで十年くらい前に、すごく人気があったんだって」


 十年くらい前というと、リオはまだ生まれていないはずだ。 


「教会の先生マエストロから習ったの?」


「うん。先生マエストロがナポリで勉強してたころ、ポルポラっていう若くて才能あるオペラ作曲家が――」


 話しながら自信がなくなってきたのか、リオの声は次第に小さくなる。


「――教会から頼まれて作ったんだったかな?」


「へぇ」


 私は間抜けな相槌を打った。ポルポラという作曲家の名前など初めて聞いたのだから。


 私の知らない世界の話をするリオは、たとえ記憶をたどりながら話していても、かっこよく見えた。憧れに瞳を輝かせながら音楽の話をする彼は、いつも以上に生き生きとしている。


「僕は田舎の村に住んでたからオペラって見たことないんだけど、大きな街には必ず劇場があって、華やかな音楽が流行ってるんだって」


 リオの澄みきった歌声には聖歌がぴったりだと思っていたけれど、彼の美しい容姿なら劇場の方が向いているのかもしれない。舞台に立って喝采を浴びるリオを想像すると、私の胸はなぜか締め付けられた。


「いいなあ」


 憧憬のため息と共に私の口から出たのは、羨望のつぶやきだった。


「ねっ、いいよね! 大きな街、行ってみたいよね」


 ひたすら無邪気なリオに、私は冷めた目を向けた。


「リオはきっと華やかな舞台が似合うよね。うらやましい」


「えっ? 僕よりも――」


 リオは畑を耕す手を止めて、きょとんとした瞳で私を見上げた。


「オリヴィアの方がずっと似合うよ? 背高くて美人だし、黒髪も素敵だし。それにオリヴィアの緑の瞳に僕、いつも吸い込まれそうなんだ!」


 真正面から褒められて、私は急に居心地が悪くなった。


「私はただ、リオが遠くに行っちゃいそうで不安になっただけ」


 慌てて言い繕う。嘘ではない。でもモヤモヤした理由はそれだけじゃないと、自分で分かっていた。


「やだよ。僕ずっとオリヴィアのそばにいる」


 リオは根拠もなく言い切った。


「それに今の僕はもう歌ってないし、人前で歌うなんて関係ない世界の話だよ」


 だが決してそんなことはなかった。


 リオは村の教会に所属する聖歌隊に加わることとなったのだ。リオは悲しみに打ち勝つためか頻繁に歌を口ずさんでいたから、美しい声を持つ少年がいると噂になったとしても不思議ではない。


 リオは週に何回か聖歌隊の練習に出かけるようになった。私は一人畑仕事をしながら、置いて行かれた子供みたいな寂しさを封じ込めようと、歯を食いしばっていた。


 聖歌隊を構成するのは少年と大人の男性たちだから、女の私に出る幕はないのだ。聖書には「女は教会で口を開くべからず」と書いてあるそうだ。私はラテン語が分からないから確かめようもないけれど。


「いいなあ、リオは神様のために歌えて」  


 ある日曜の朝、私はうっかり本音を漏らした。口に出してから、弟のようなリオをうらやましがってばかりいる自分が恥ずかしくなった。


「心の中でお祈りすれば、神様には伝わるよ、きっと」


聖歌隊席カントリアで歌うの、気持ちよさそう」


 かみ合わない答えを返す私にリオは、何かを思い出そうと上目遣いになった。


先生マエストロが言ってたの、どこだっけかな。東北のほう――ヴェネツィア共和国には女性の音楽家だけが集まるピエタとかいう音楽院だか学校だか、何かあるんだって」


 また曖昧な話を始めた。


「でもオリヴィア、僕は君がそんな遠くへ行ってしまったら嫌だな」


 私を見上げるリオの瞳には涙がたまっていた。ヴェネツィア共和国なんてどうやって行くかすら分からないというのに。


 私は何も言わずにリオを抱きしめていた。


 あたたかい―― 胸がいっぱいになったとき、せわしない足音が近づいてきた。


「リオネッロ、あんたはリハーサルとやらがあるんだから、とっとと教会へお行き!」


 アンナおばさんは今日も苛立っていた。


 リオを追い出すと、汚れたエプロンを洗いたての――とはいえこちらも薄汚れているのだが、洗ったばかりのものに付け替えながら、


「ああ、いまいましい! なぜか教会へ行くとあたしゃあ頭痛がするんだ」


 不機嫌を隠さず一人ごちた。


 着替え終わったルイジおじさんがベッドルームからぬっと顔を出して、


「アンナ、それはあまり口に出さない方がいい」


 低い声でささやいた。


「フン、あの業突ごうつく神父の顔を見るだけで、胃の位置がおかしくなりそうだよ」


 業突く張りはあんたでしょ、と心の中で突っ込みながら、私は黙って教会へ行く支度をした。




 爽やかな朝の空気に、ミサの開始を告げる鐘の音が染み渡る。


 村人たちの列に加わって、私も聖堂に足を踏み入れた。ロウソクとお香が混ざったような匂いが、なつかしい記憶を呼び起こす。遠い村へ来てしまったけれど、凛とした教会の佇まいだけは慣れ親しんだものだ。


 祭壇のうしろから朝日が差し込み、色褪せた壁画や古い聖母子像を柔らかく照らし出す。幼な子を抱いたマリア様の静かなまなざしが、私の心を癒してくれる。


 入祭の歌を担当したのは大人の男性ソプラノだった。目が覚めるような明るい音色と力強さが、夏の朝日を思わせる。新しい一日の到来を告げるかのような歌声に、私は耳を奪われた。


 短い祈りをはさんで、また音楽が始まった。どこか覚束おぼつかないオルガンに導かれて、耳慣れた「キリエ」が歌われる。


「キリエ・エレイソン――」


 大人の男性ソプラノに従って、リオたちボーイソプラノも声をそろえる。私の耳は、少年たちの合唱からリオの澄んだ音色を聞き分けていた。リオの声はただ耳を喜ばせるだけの美しい音ではなく、聴く者を包み込む優しい歌声なのだ。


 あの少年は私の弟なんだと、教会に集まっている村人全員に大声で自慢したくなったとき、


「クリステ・エレイソン――」


 また大人の男性ソプラノが声を張った。胸に迫ってくる鮮烈な印象は、リオの甘い声とは全く異なる。大人の男性歌手一人で少年たち全員合わせたよりも声量があるのだ。


 でも不思議だな。


 私は心を奪われながらも、頭の片隅で考えずにはいられなかった。


 男性歌手はほかにもいるのに、どうして彼の声だけが特別なんだろう?




─ * ─




次回「息子さんをオペラ歌手にしませんか?」

美声を認められたリオに怪しい影が近づいてきます。

そのときオリヴィアは?

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