04、「息子さんをオペラ歌手にしませんか?」

 私はリオから、聖歌隊には四つのパートが存在すると教わっていた。高い方から順にソプラノ、アルト、テノール、バスと言うそうだ。


 テノールとバスは地声で歌う男性の声だから、ソリストを務める男性ソプラノとは全く違う。


 一方アルトパートには少年も混ざっていたが、話し声で歌う子供たちと違って、大人の男性たちは裏声で歌っているように聞こえる。


 でもくだんの男性ソプラノの鋭い音色は、空気が混ざったような裏声とは異質なものだ。


 彼は天才なのだろうか? でもそれならなぜ、こんな小さな村で歌っているのだろう?


 若い神父様のありがたい話を聞き流しながら、私の頭は疑問でいっぱいだった。


 ミサが終わったらリオに訊いてみよう。リオは彼の隣で歌っているんだから、何か知っているかも。


 そう思うとまた、猛烈にリオがうらやましくなってきた。私も聖歌隊席カントリアで、あんなすごい声を持った歌手と並んで歌えたらいいのに!


 もし私が男の子だったら、リオと共に歌を学べたのだろうか?


「今あなたが持っているもので満足しなさい」


 聖書を読み上げる神父様の声が、私の耳に飛び込んできた。


「主は言われた。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』」


 顔を上げると、幼いころから祈り続けてきた十字架が目に入った。


「イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも変わることがありません」


 だけど私は毎日変わってゆく。愛も憧れも嫉妬もたくさんいだいて、いつかきっと遠いところまでたどり着く。


 それでもイエス様は変わらず、私を見ていてくれるのか。


 きっと私の望みなんてお見通しなんだろうな。


 どこまで行っても守られているのなら、私はまっすぐ力強く生きよう。


 前向きな決意が私の胸に宿ったとき、私の横でアンナおばさんが頭を抱えていた。


「うぅ、割れるようだ」


 彼女はほぼ毎週、ミサの最中に頭痛を起こすのだ。ルイジおじさんは周囲の目を気にしながら、妻の背をさすっていた。


 村人たちはアンナとルイジの近くには座らない。少し離れた席から恐ろしそうに眺めていた。


 ミサが終わるや否や、二人は教会から足早に出ていった。いつもは口うるさいアンナおばさんも、具合が悪いとおとなしい。


 自由を得た私は教会の裏庭へ向かった。裏庭に面した扉から、リオたち聖歌隊員が顔を出した。


 雑談しながら歩く大人とふざけ合う子供たちに混ざって、緊張した面持ちで出てきたリオは、私に気が付くとパッと笑顔を咲かせた。


「オリヴィア!」


 全身に喜びをみなぎらせて駆け寄ってくるリオに、私も笑いかけた。


「お疲れ様。リオの声、ちゃんと聴こえたよ。とっても綺麗だった」


「ほんと!? 教会って響くから分からないかと思ってた!」


 華やかな笑顔から一転、リオは小声で打ち明けた。


「でもちょっと間違えちゃった」


 ぺろりと舌を出すリオのうしろを、仲間たちが声をかけながら通り過ぎる。


「じゃあリオネッロ、また水曜の練習でな!」


 私は背の高い男性ソプラノのうしろ姿を目で追いながら、


「あの人の声、ほかの歌手たちと全然違ってすごいよね」


 リオに耳打ちした。


「ロレンツォさん?」


 まわりの歌手たちより頭一つ分高いうしろ姿を見送りながら、リオが彼の名前を口にした。


「僕の先生マエストロも彼みたいな輝かしいソプラノだったよ。でももっと自由自在で、ピアニッシモで柔らかい声を出したり、すごく長い息でレガートに歌ったりできたんだ」


 また先生の自慢話が始まった、と思っていたら、リオは悲しげなほほ笑みを浮かべた。


「きっと先生マエストロは今頃、天国の聖歌隊で歌ってるんだ。神様の目の前で」


 リオの先生も流行り病の犠牲になったんだという当たり前のことに、私は今さら気が付いた。なんと声をかけてよいか分からず黙り込んでしまった私に、


「ロレンツォさんの歌ってたソロパート、かっこいいよね」


 リオは話を戻すと、足元の枝を拾った。地面にアルファベットを書き、「キリエ」のソロパートを口ずさんだ。


「オリヴィアも歌ってみてよ」


「えっ、私!?」


「うん、オリヴィアの歌声、聴いてみたい。僕、オリヴィアの話し声がすごく好きだから」


 私は辺りを見回して誰もいないことを確かめてから、木立を吹き抜ける五月の風に、そっと声を乗せた。


「キリエ・エレイソン――」


 感銘を受けたフレーズを真似して歌うと、まるで自分があの男性歌手――ロレンツォ氏になったような心地がする。


「やっぱりいい声!」


 リオは手をたたき、自分のパートを重ねて歌った。


 私たちの声は溶け合い、初夏の日差しにきらめいた。


 だが幸せな時間はすぐに破られた。


「オリヴィア! リオネッロ! どこにいるんだい!?」


 アンナおばさんのザラザラとした声に、リオはびくんと肩を震わせると、土に書いた歌詞を慌てて靴で消した。よほど彼女が苦手なのか私の手を取り、教会裏のうまやの方へ引っ張っていった。


「ちょっとリオ、どこに――」


「隠れよっ」


 リオは厩の陰にしゃがみこんだ。


「歌ってたのバレたらまた怒られるよ」


 口うるさいババアが何を言おうと放っときゃあよいのだ、と思ったが、リオは彼女の不快な声を聞きたくないのだろう。


 だが突然、


「あちらの奥様シニョーラがリオネッロくんの保護者ですかな?」


 耳慣れない気取った言い回しに、私とリオは顔を見合わせた。声の主は教会の方から老神父と連れ立って、アンナおばさんに近づいてくる。


「そうです。では、あとは――」


 老神父は、見慣れない男に思わせぶりなまなざしを投げかけて、言葉をにごした。


「ええ、ええ。あとは全てお任せください、神父様」


 都会風のジュストコールに身を包んだ男は、胸に手を当てて神父に一礼した。


 老神父は一瞬、聖職者らしからぬ俗っぽい笑みを浮かべたが、すぐにおごそかな表情を取り戻し、教会の中へ帰って行った。


 二人の会話を耳にしたアンナおばさんが、足を止めて振り返った。


「一体なんの用だい? あたしゃあ忙しいんだが」


 彼女は露骨に都会風の男を怪しんでいる。


「まあまあ奥様シニョーラ、聞いて損になる話じゃあ、ありませんよ」


 身なりのよい男は声をひそめた。


「息子さんをオペラ歌手にしませんか?」




(新約聖書『ヘブライ人への手紙』より一部抜粋)




─ * ─




この怪しげな男、一体何を企んでいるのか?

リオネッロが歌手になって、得する人間がいるのか?


次回『残酷な外科手術と男性ソプラノの真実』

遠回しな表現を選んで書きましたが、やや閲覧注意な内容となります💦

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