76、ナポリの夏の過ごし方
彼と共に学べることを誇りに感じているうちに、私たち合唱の出番がやってきた。ついたてのうしろから出てホールの壁際に並ぶ。
ホール正面では老婆役のテノールがアリアを披露しているが、近くのお客さんたちは私たちを眺め、ほほ笑みかけてくる。やはり、ここでも聴衆は低い声には興味を惹かれないようだ。だからテノールは、老婆役なんていうパッとしない役柄しかもらえない。
驚きなのはプロの女性歌手が複数人出演するオペラ劇場でさえ、身分の低い侍女の役などをテノールが担うことだ。観客は役柄と、演じる人間の性別が一致していなくても気にしないらしい。確かに声だけ聞けば人気歌手は全員、ソプラノかアルトなのだが。
私たち合唱歌手は村の少年たちに扮して
「なんて美しいお嬢さん、
どれほど清らかな心を持っているのだろう」
私たちが歌いかける相手は、すました顔で中央に座っているカッファレッリだ。彼が清らかな心を持っているだなんて、練習時は何度も笑い出しそうになった。本人のいないところでリオやぽっちゃりくん、チビのトニオと共に何度も冗談のネタにしたものだが、台本に描かれているのは死後、列聖される宗教劇の女性主人公である。
「あなたは私たちの村の、
いいえ、この国の誇りです」
私は面白みのないアルトの旋律を歌いながら、決められた場所へ移動する。演技を伴う音楽劇では、聖歌隊での音楽奉仕のように歌のことだけ考えているわけにはいかない。正しいピッチで、なまりのない綺麗な発音で、正確なリズムで――などと考えていると動きがぎこちなくなってしまう。
だが卒業間近の先輩たちは、しゃべるように
「わが娘よ、私はお前の魂を理解した。
救い主のために生きなさい」
合唱の途中でサンドロさんがソロを歌うが、発声のことなど
「どうぞ救い主のために、お生きなさい」
合唱がアルトソロのフレーズを繰り返す。
修道院のホールには劇場のようなオーケストラピットはない。私たち歌手は器楽アンサンブルの前に出て歌うので、お客さん一人一人の表情がよく見える。
出番前は震えていたチビのトニオも、音楽が始まるとリハーサル通りきちんと役をこなしていた。彼やリオ、私など年齢の幼い生徒を見ながらお客さんが目を細めている。まだ未熟な学生たちを暖かく見守ってくれる観客が、私たちを一人前の音楽家に育ててくれるのだと思うとありがたい。
修道院で行われた音楽劇は好評のうちに幕を閉じた。観客たちはデビュー前夜の音楽家による若々しい演奏を存分に楽しんだようだ。台本は昔の時代を生きた聖女の半生を描いたものだったが、観客たちの雰囲気は敬虔とは言い難い。彼らの視線に清らかでないものが混じっているのを感じつつも、暖かい拍手に包まれて、私は感謝の気持ちで満たされた。
音楽劇を終えて七月がやって来ると、帰る場所と資金がある学生は里帰りするので、音楽院は人が減ってくる。チェンバロのある部屋で練習できるのでラッキーだ。
音楽院では貧しい子供たちばかりが学んでいるのではない。学費を払って在籍する青年たちもいる。そうは言っても職業音楽家を目指すのだから庶民である。貴族や資産家は名音楽家を自宅に招き、個人教授を受け、愛好家として音楽を楽しむのだ。
「ねえ、オリヴィエーロ。昼食のあとは海に行こうよ」
練習が終わるとリオが、うずうずしながら誘ってくる。
「どうせ午後は暑くて練習どころじゃないんだから」
「一階の教室なら涼しいよ」
巨大な石造りの建物では、地上階に冷気がたまるものらしい。真夏でもひんやりとしている。
「えー、一階は埃っぽいし、じめじめしてるじゃん」
口を尖らせるリオと並んで食堂へ向かって歩いていると、廊下の向こうから二人の先生が話しながら近づいてきた。
「ジャルディーニ氏の依頼か。彼は定期的に寄付してくれるから邪険にはできないでしょうな」
声から察するに片方はドゥランテ先生のようだ。
「ああ、そうなんだが時期がねえ」
「病気の娘さんを元気づけるために、できるだけ早く来てほしいというのでしたな?」
七月下旬の今、できるだけ早くと言われても先生たちは困るのだろう。音楽院に残っている学生の数も少ないし、暑さの厳しいナポリ市内で演奏したがる者はまずいない。
お金持ちなら避暑のために山へ行っているのではないかと思ったが、娘さんが病気だと言っていたから、馬車での移動に耐えられないのかもしれない。
「初秋まで待ってもらうしかなかろう」
「そうは言っても九月十九日は聖ジェンナーロの日だし、それ以降は降誕祭や謝肉祭シーズンに向けて、上手な子はあっちこっちリハーサルに駆り出されますからなぁ」
聖ジェンナーロはナポリの守護聖人だ。九月十九日の聖ジェンナーロ祭には音楽が欠かせない。音楽家にとって忙しい秋冬シーズンの幕開けともいえる。
今年は私も、あちらこちらに駆り出される上手な子に仲間入りしたいものだ。
すれ違いざま小声で、
「こんにちは、先生」
と挨拶した私をドゥランテ先生が見下ろした。あまり笑わないドゥランテ先生と目が合うと、怒られているわけでもないのについ背筋が伸びてしまう。
「うむ」
気難しい顔で返事をして会話に戻ろうとしたドゥランテ先生が二、三歩進んでから私たちを振り返った。
「オリヴィエーロ、リオネッロ。お前たちいくつになった?」
「十三歳です」
即答した私に少し遅れてリオが、
「十月に十二歳になります」
と未来の年齢を報告した。
「よかろう」
何が良いのか全くわからないが、ドゥランテ先生は満足そうにうなずいて去っていった。
この時の会話が私たちに、また新たな活躍の場をもたらすなんて予想もしていなかった。
私たちはナポリの暑い夏を海で遊んだり、ルイジおじさんに手紙を書いたりして過ごした。
「マルチェッロとサンドロさん、ヴェネツィア共和国で楽しんでいるかなあ」
開け放した窓から紅に染まった空を眺めながら、夕風に吹かれてリオがつぶやいた。
マルチェッロとはぽっちゃりくんのことだ。兄弟はお兄さんが暮らしているヴェネツィア共和国へ行っていた。カッファレッリの華やかな活躍の陰に隠れて目立たないが、サンドロさんも二人分の旅費を出せるくらいには稼いでいたらしい。ヴェネツィアでの滞在費は、歌手として当地で活躍しているお兄さんが持ってくれるそうだ。
「ヴェネツィア共和国って干潟の上に作った人工の島なんでしょ。きっとナポリの方が湿度が低くて過ごしやすいよ」
ナポリから出られない私は、かすかに海の匂いがする風に吹かれながら負け惜しみを言った。私たちの暮らす屋根裏部屋には、いつも心地よい風が舞い込んでくる。
窓から見上げた空はインクを流したように、少しずつ深い青へと染まってゆく。窓枠に両手をついて身を乗り出せば、水平線のうしろに大きな太陽が沈んでいくのが見えた。オレンジ色の光が
「そうかも」
笑いを含んだ声に振り返ると、リオの金髪も海と同じオレンジ色に輝いていた。
「それに焦らなくても、僕たちだってヴェネツィア共和国へ行くことになるさ。仕事でね」
自信に満ちた笑みを浮かべるリオがまぶしい。私は思わず目を細めながら、しっかりとうなずいた。
「そうよね。ヴェネツィアにはたくさんオペラ劇場があるんだもん」
長い夏の厳しい暑さが和らいでくると、支援者一家と共に避暑へ行っていたカッファレッリも寄宿舎に戻ってきた。思いがけない知らせをたずさえて。
だが私たちにもたらされたニュースは、それだけではなかった。音楽院の活動が本格的に再開する頃、私たちの人生も確実に新しい扉を開こうとしていた。
─ * ─
次話『デビューのチャンスのつかみ方』
デビューのチャンスをつかんだのは誰なのか!?
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