75、観客を魅了するカッファレッリ

「誰?」


 一人は老紳士のような衣装を着たサンドロさんだ。だが彼に付き従って登場したのは、見たこともない美少女だった。神秘的な夜空のごとく澄んだ瞳を、魅力的にカールしたまつ毛が縁取っている。ホワイトブロンドの後れ毛が一束、柔らかな波模様を描いて薔薇色の頬に落ちる。そのおもてには清らかな微笑が優しく浮かんでいた。


 彼女の白い首筋に惹きつけられて、目が離せなくなった私の耳元で、ぽっちゃりくんがささやいた。


「カッファレッリだよ」


「えっ」


 思わず声を上げた私を見下ろして、上級生のテノール歌手が口の前に人差し指を立てた。静かにしろということらしい。


 だが動じないぽっちゃりくんは私のうしろで、なおもささやき続けた。


「カッファレッリは化けるのがうまいんだ。少女役も得意なんだよ。オリヴィエーロは初めて見るんだっけ?」


 私は無言でうなずきながら、レチタティーヴォを演じる二人をしかと目に焼き付けた。


 チェンバロが奏でる分散和音アルペジオに導かれて、サンドロさんが堂々としたアルトの美声で語りかける。


「愛おしい娘よ、

 お前が考えているのは毎日、主のことばかり。

 だがこの村にはたくさん男がいる。

 信心深いお前を妻にと望んでいる」


 恰幅のいいサンドロさんは、結婚する娘のいる父親に見えなくもない。二年前の私なら、中年男性の役柄が透き通ったアルトの声で歌われることに違和感を覚えたはずだが、大人の男性から軽やかな高い声が出てくることに今やすっかり慣れてしまった。


「お言葉ですが、お父様」


 美少女――もといカッファレッリが秘めやかに膝を曲げ、いじらしいまなざしでサンドロさんを見上げる。


「私の心におわしますのは

 わが救い主、ただ一人」


 恋する乙女さながらの恥じらいを浮かべ、純粋な信仰心を告白する姿に、客席から憧れのため息が漏れる。


 だが呆けた顔の観客たちをあざ笑うことはできない。私もまた、少女の可憐な姿に惹きつけられてやまない一人なのだから。愛おしくて抱きしめたくなる魅力を、彼女は振りまいている。 


 だが違うのだ。あれは彼女とか少女とか呼べる存在ではない!


 ついさっきまで「俺様には二本生えてる」だの、私のことをノーパンだのと品のない冗談ばかり言っていた男なのだ!


 私はめまいを覚えてこめかみを押さえた。


「オリヴィエーロ、大丈夫?」


 リオがうしろから支えてくれる。


「なんだか具合が悪くなりそう」


 げんなりしながら、なぜか私はカッファレッリから目を離せない。愛らしいレースが目を引く少女の衣装だけでなく、ホワイトブロンドのかつらも薄化粧も、彼にはとてもよく似合っている。


 性格があんなだから忘れてしまうけれど、カッファレッリは美形なのだ。


 そういえば彼は以前、カストラートの少年たちのオペラデビューは、ほぼ必ず女性役だと話していた。私もリオも少女役でデビューする日がくるのか。いつも男らしく見せたがっているリオは、大勢の観客を前にしてスカートを履き、かつらをかぶって、乙女のほほ笑みを浮かべることができるのだろうか?


 客席の前へ歩み出たカッファレッリは、いつもの彼からは想像もできない真摯な表情でアリアを歌い始めた。


「我が敬愛する父上、母上。

 わたくしの運命は世俗の殿方と共にあらず、

 イエス様こそ、我が人生を捧げるべきお方なのです」


 形の良い唇が優しい旋律を紡ぎ、甘い歌声が聴衆の耳を撫でてゆく。


 かすかに哀愁を帯びた音色が、そよ風となって私の心に吹き込む。甘酸っぱい痛みが心地よく襲ってきた。


 ついたての間からちらりと観客の横顔を盗み見ると、奥さんと並んで座っている身なりのよい紳士が、まるで初恋を思い出したかのようにとろけた表情になっている。


 カッファレッリは会ったばかりの頃、言っていたっけ――私たちの仕事は観客をその気にさせることだって。


 一度テーマを歌い終わると短い間奏をはさんで、属調で少し変奏したテーマが繰り返される。


 カッファレッリは「我が人生mia vita」という単語に書かれたアジリタの走句パッセージを、見事なテクニックで歌ってみせた。


 その瞬間、私はハッとした。この曲、彼が劇場の中庭で練習していたアリアだ! 寒空の下、何度もこのアジリタを繰り返していたカッファレッリを思い出す。


 だが今、目の前で歌われる華麗なアリアには、彼が苦労していた痕跡など微塵も見当たらない。まるでこの世に生まれ落ちたその日から、話すより先に完璧な歌唱をマスターしていたかと錯覚させるほどに、彼の歌声は自然で非の打ち所がなかった。


 なめらかなアジリタは、シャンデリアから下がる色ガラスが次々と透明な蜘蛛の糸に飾られていくかのよう。粒のそろった音の雫が、キラキラと光をまき散らしながら虚空へ消えていく。


 肩にリオの手のひらを感じて、彼が今も私を支えてくれていたことを思い出した。


 振り返るとリオはついたての隙間から、少女姿でアリアを歌うカッファレッリに挑むようなまなざしを向けている。私の肩に置いた手に力がこもっていることなど気付いていない様子だ。


 リオは何を思っているのか――カッファレッリに対抗心を燃やしているのか、それとも完璧に少女役を演じて見せる彼に驚いているのか、私には分からない。


 ふと、寄宿舎に着いた最初の日、管理人の奥さんがリオに言い聞かせた言葉が頭をよぎった。


 ――役に立たない羞恥心なんぞ捨てちまいな――


 そうだ、男性であることを奪われたなんて思っていたら、あんな魅力的な微笑で観客をとりこになどできるわけがない。


 美しいソプラノを存分に聴かせたカッファレッリは、たおやかな少女の仕草で観客の前から姿を消した。だが私は、ずっと昔に覚悟を決めたであろう彼の、純粋な強さを見せつけられた気がした。


 アリアの後奏が終わらぬうちに、待ちきれない観客たちは手をたたき出した。それは次第に迫りくる波のように大きくなっていき、ホール中に鳴り響いた。


「なんて愛らしいのだろう」

「声も容姿も天使と呼ぶにふさわしい!」

「カッファリエッロは私に流し目をくれたよ」


 すでにカッファレッリを愛称で呼ぶ勘違い客までいる。彼らはカッファレッリを美声に恵まれた、少女のように愛らしい美少年としか思っていないだろう。だが私は、彼の中に流れる熱い血潮と、あらゆる存在に屈することのない強い魂を知っている。


 彼と共に学べることを誇りに感じているうちに、私たち合唱の出番がやってきた。




─ * ─



さて、二度目の合唱の舞台でオリヴィアは何を思うのか?

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