74、ついに来た、禁断の検査
磨きあげられた修道院の床は、等間隔に立つ石柱を鏡のように映している。遠くの部屋までまっすぐ続く幾何学模様のタイルは、まるでだまし絵のようだ。
ようやく鞄を置いた部屋まで戻ってきた私は肩で息をしていた。
万一の事態を想定して、ルイジおじさんから渡された木箱をつねに鞄の底に潜ませていたことが幸いした。
小さな箱を開け、並んでいる肌色の革製品に手を伸ばしたとき、重要なことに気がついた。
「いけない、リオにサイズ聞き忘れちゃった」
だが質問のために戻る時間はない。
「このくらいかな?」
いつも隣にいるリオの秘められた場所を、服の上から透視するような気持ちで想像しながら、親指くらいの太さで作られた一本を選んだ。
木箱の中をさぐって、陶器でできた丸い小物入れを手のひらに乗せる。ルイジおじさんがトラガントゴムだと説明していた粘質物を指先に取った。木の幹に傷をつけて採取する、いわゆる糊の一種だそうだ。
革製品に糊をつけ、そっと貼り付ける。
「つめたっ」
ひんやりとした感触に思わず声を上げてしまった。
「冬じゃなくてよかった」
変身を終えた私は服装を元通りに整え、木箱を鞄の底に隠すと急いで部屋を出た。
来た道を広間へ戻る途中、中庭の木陰にレーオ先生と修道士の姿が見えた。
「全くうちの生徒たちの何を疑っているんですか!」
普段は陽気なレーオ先生が不満を
私は抜き足差し足、円柱の影から影へ飛び移りながら耳を澄ました。生ぬるい風にあおられて、開け放された上階の鎧戸がきしむ音がする。
「ローマから教皇庁の使者が来ているのです」
苦い顔をした修道士が打ち明けるのが聞こえた。
「男女の双子を探しているそうですよ。なんでも
「ほう、それは興味深いですな。とはいえ男女の双子が少年たちの中に混ざっているわけはないでしょう」
レーオ先生がまっとうな返事をする。
私とリオ以外にも不思議な歌声を持った子供がいるのだろうかなどと考えながら、私は足早に広間へ戻った。
「オリヴィエーロ、検査が終わったらすぐに着替えるようにだって」
カッファレッリと連れ立って広間から出てきたサンドロさんが、私を微塵も疑っていない口調で教えてくれた。
「二人はもう終わったの?」
私の問いにサンドロさんはうなずいて、
「上級生からだったんだ。僕たちは役があるから準備に時間がかかるだろう?」
優しく答えてくれているあいだに、カッファレッリはさっさと楽屋代わりに与えられた部屋へ去って行く。
「カッファレッリは主役の聖女に化けなくちゃいけないし、僕は彼の父親に見えるよう重そうな衣装を着るんだ」
サンドロさんのおしゃべりに相槌を打っていたら広場の中から、
「オリヴィエーロ、次が君の番だよ」
ぽっちゃりくんに手招きされた。
広間に入ると、ついたての向こうからリオが出てきたところだった。私に気が付いたリオは、微笑を浮かべてゆっくりとうなずいて見せた。
彼が私に何を伝えようとしたのか疑問に思っているうちに、
「次」
偉そうな声が響いた。
彫刻の施された木製のついたてを越え恐る恐る足を踏み入れると、気のよさそうな老修道士が背もたれの高い椅子に腰かけていた。彼の斜めうしろに立っているのは、いかめしい顔をした中年男。この男がローマからの使者だろうか。
「すぐに終わるよ」
老修道士は目じりの皺をさらに深くして、私にほほ笑みかけた。子供が好きでしょうがないという雰囲気に、少しだけ緊張がほぐれる。私は背筋を伸ばして立ち、天井近くに見える高い窓を凝視したまま小さくうなずいた。
服を脱ぐよう指示されるのだと思い、身を固くしていたら、
「うん、男の子だね」
触れられたことさえ気付かないうちに、検査は終わっていた。服の上から一瞬だけ手のひらで触れたようだが、ハリボテのせいで私には何の感覚もなかった。
「次」
ローマから来た使者が太い声を張り上げ、老修道士はかすれた小声で私に、
「これで終わりだよ」
と告げ、出て行くように促した。
リオは出たところで待っていてくれた。
「お疲れ」
彼の優しい笑顔を見た途端、安堵がこみ上げてくる。無事、切り抜けたのだ! 宗教劇の本番より緊張したことは間違いない。
リオの前に検査を終えたぽっちゃりくんが、
「ちぇーっ、オリヴィエーロも男かぁ。ざーんねん!」
おどけた口調で口をとがらせた。
「当たり前だろ」
私は余裕の笑みを浮かべて、ぽっちゃりくんを肘で突いたのだった。
最後に一番年少のトニオがついたての中から出てきて全員の検査が終わったが、女の子は見つからなかったようだ。ローマから来た使者が苦い顔をしている横で、若い修道士がついたてを片付けてゆく。
老修道士が少し曲がった腰を拳で叩きながら広間を出ていくのとすれ違いに、レーオ先生が入ってきた。
「お前ら早く本番用の衣装に着替えてこい。会場はお客さんでいっぱいになってるぞ」
レーオ先生にせき立てられた私たちは、与えられた部屋まで小走りで戻った。本番前に妙な検査をされたせいで、大急ぎで着替えることになってしまった。
下着の中に仕込んだ変身道具を取り外す暇もなく、私は少年たち三人と共に本番のホールへ走った。
「オリヴィエーロ、ついたまま本番」
リオが走りながらおなかを押さえて笑い出す。ぽっちゃりくんもチビのトニオも意味が分からず、不思議そうに私たちを振り返った。
本番の会場は「黄金の間」と呼ばれる美しいホールだ。緻密な木彫りの天井に黄金があしらわれていて、
ゲネプロ時は窓から差し込む日差しを鏡のように反射していた大理石の床に、今は椅子が並べられ、黄金の間は人々で埋め尽くされていた。
正面には理想郷のように美しい田園風景の描かれた布が下がっている。風景画の前にはチェンバロが運び入れられ、その周りには、器楽奏者たちが使う譜面台が並んでいた。
オペラ劇場のようなオーケストラピットや舞台装置はなくても、これから音楽劇が始まるという期待感がホールを満たしている。
舞台袖も存在しないので、私たちが待機するのはホール脇の小さな空間だ。ホールと隔てる扉はなく、見覚えのあるついたてで仕切られているだけ。客席の様子がじかに伝わってくるので、出番前から落ち着かない。
やがて器楽の生徒たちが楽器を手に姿を現すと、始まりを告げる拍手が巻き起こった。演奏が始まる前の心地よく張り詰めた空気が、私は大好きだ。これから奏でられる音楽を心待ちにするお客さんの視線に胸が踊る。
器楽奏者たちが全員所定の位置につくと、さらに大きな拍手に迎えられてレーオ先生が現われた。チェンバロの前で片手を胸に当て、客席に向かって一礼する。
レーオ先生がチェンバロの前の椅子に座り、アンサンブルの面々を見渡す。一瞬、時が止まったかのような静寂の後、序曲が始まった。
弦楽器の弓が一糸乱れぬ動きで
若々しい旋律に魅せられて、私はそっと目を閉じ深呼吸した。全身に美しい音楽が満ちてゆくようだ。
だが序曲が終わりに差し掛かったとき、背景画の描かれた布のうしろから出てきた人物に私は目を奪われた。
「誰?」
一人は老紳士のような衣装を着たサンドロさんだ。だが彼に付き従うように登場したのは、絶世の美少女だった。
─ * ─
絶世の美少女の正体は!?
次回『観客を魅了するカッファレッリ』です。
宗教劇で主役を歌う彼の雄姿(?)が見られますよ!
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