77、デビューのチャンスのつかみ方

 ナポリの日差しは相変わらず南国のようだ。だが長いカーテンを揺らして室内にすべりこむ風は、少しだけ涼しくなった。


 数ヶ月ぶりに音楽院の教室でカッファレッリと顔を合わせた。夏の初めにサンタニェッロ修道院で見た、宗教劇での少女姿が脳裏をよぎって鬱陶しい。頭の中でぶんぶんと手を振って、あでやかな美少女像をかき消しながら、この人は私たちの先生だったと不思議な気持ちで思い出す。


「お前ら、秘密を守れるか?」


 チェンバロの前に立ったカッファレッリが、偉そうに腕組みをしたまま尋ねてきた。


「この話はまだ一部の人間しか知らないんだ」


 妙にもったいぶるのを、私とリオは黙って聞いていた。


「俺様のデビューが決まった」


 端的な言葉に私は息を吞んだ。


「いつ?」


 すかさずリオが尋ねる。


「来年の謝肉祭シーズンに、ローマの劇場でな」


「ローマ!? ナポリじゃないの?」


 驚く私に、


「ローマは女性歌手が舞台に立てないから、俺たちの仕事がたくさんあるんだぜ」


 カッファレッリはにやりと、したたかな笑みを浮かべた。


 どうしてローマでは、と質問しかけて私はすぐに思い至る。


「教皇様のお膝元だから?」


「ああ。今年は聖年だから劇場は閉鎖されてる。でも来年には開くんだ」


 聖年とは二十五年に一回、ローマを訪れる巡礼者にゆるしが与えられる年のこと。ちなみに二十五年前の前回は千七百年だったから、百年に一度の大聖年だったはずだ。


 特別な巡礼の年にオペラが禁じられてしまうなんて、


「厳しいね」


 私は小さな溜め息をついた。


 とはいえ半年前、合唱の一員として舞台に立った私は、教会が劇場に眉をひそめる理由が分かるような気がした。貴族や上流階級の人々にとって劇場が社交の場であるのは理解できたが、カーテンの閉められたボックス席という秘密の空間で彼らが何をしているのか? 社交の場とは、出会いの場とも言い換えられるのかも知れない。


 そして終演後、私が付き従っていた第一女性歌手プリマドンナはパトロンらしき中年男性の大きな手で腰を抱かれ、彼の馬車に乗って夜の貴族街に消えて行った。


 大人の遊興の場である劇場に思いを馳せていると、カッファレッリが肩をすくめ、


「今はマシな時期らしいぜ。三十年くらい前は劇場が取り壊されたりしたんだとよ」 


 私とリオは驚いて顔を見合わせた。


「じゃ、久しぶりにお前らの声でも聴くか」


 チェンバロの蓋を開けるカッファレッリに、意外にもリオが真剣な顔で尋ねた。


「カッファレッリがいなくなったら誰が僕たちに歌を教えてくれるの?」 


「サンドロかな?」


 カッファレッリは軽い調子で口にしたが、何か思い出したらしく、チューニングハンマーに伸ばした手を途中で止めた。


「あいつもすぐにデビューするのか。夏の間にヴェネツィア共和国に行って、有力者に声を聞いてもらったんだよな」


「えぇ、そうなの!?」


 私は思わず高い声を出した。弟のぽっちゃりくんと二人、お兄さんに会いに行ったのだとばかり思っていたが、チャンスをつかむための旅だったとは。


「知らなかったのか?」


 振り返ったカッファレッリは驚いたように眉を上げた。


「あいつの兄貴はヴェネツィア貴族の寵愛を受けてるんだぜ。そのコネを利用しない手はないよな」


 サンドロさんのお兄さんがヴェネツィア共和国で歌っていると知ってはいたが、弟たちが仕事を見つけるきっかけになる可能性まで考えなかったのだ。私はまだこの世界のことをよく分かっていない。歌のテクニック以外にも知るべきことはたくさんある。


「カッファレッリも夏の間に、避暑に行った先でチャンスを掴んだの?」


 真正面から尋ねた私にカッファレッリは、


「ちげーよ」


 と、いつも通り不愛想な返事をしたが、ちゃんと説明してくれた。


「俺様は修道院の宗教劇で主役を歌ったろ? ああいう場所にはエージェントや興行師インプレザーリオ、果ては自作品に出演させる歌手を求めて作曲家まで来ているものなんだ」


 知らなかった! あの音楽劇はいわば新人音楽家のショーケースだったのだ!


「僕たちも見初められたかもしれないってこと!?」


 リオが五度以上高い声を出したので、カッファレッリは苦笑した。


「お前らはまだ三年かそこらしか音楽院にいないだろ? もっと貢献して音楽院にお金を落とさないと自由にはなれないぞ」


 思いもかけない言葉が返ってきた。私はいまいち理解できず、


「そういうものなの?」


 首をかしげた。


「そりゃそうさ。俺様達は八年とか十年とか音楽院に拘束される契約を結ばされているんだから」


「「契約!?」」


 私とリオは声を揃えて聞き返した。


「何も知らないんだな」


 カッファレッリの高みに立った物言いに腹を立てる余裕もなく、私たちは彼の話に耳を傾けた。


「音楽院は俺ら学生を商品として貸し出したり、派遣したりして運営資金を稼いでるんだよ。ちょいとばっかし上手くなったところで独り立ちされたら投資だけして回収できないだろ?」


 だから契約期間の定めがあるのか。


「きっと入学前にお前らの後見人がサインしているはずだ」


 後見人というと――ジャンバッティスタが私たちの入学手続きを全て担ってくれたのだから、彼に尋ねれば正確な契約期間が分かるのだろう。


 彼を信用したことは一度もないが、当時の私は世間知らずな田舎の子供で何も分かっていなかったのだと、つくづく思い知らされた。


 表情を険しくしていた私の横で、リオは明るい笑顔でうなずいている。


「じゃあ僕たちはまだ何年も、落ち着いて学べる時間があるってことだ」


 リオの言う通りかも知れないと思い直したとき、扉がノックされた。


「はい」


 カッファレッリが返事をして、チェンバロの椅子に座ったまま扉の方に顔を向ける。


「失礼するよ」


 入ってきたのはドゥランテ先生とエンツォだった。なんだか意外な組み合わせだと思ってしまったのは、私が音楽院に入学した年に参加した降誕祭ナターレミサで、歌いながら指揮をしていたエンツォが体調を崩して、ドゥランテ先生から聖歌隊不参加を言い渡されたのを思い出したからだ。


「今いいかい?」


 ドゥランテ先生がカッファレッリに尋ねる。


「もちろん」


 彼がうなずくと、ドゥランテ先生は私とリオに向き直った。


「オリヴィエーロ、リオネッロ。二人は降誕祭ナターレ前の時期に外で歌う予定はあったかな?」


「いいえ」


 私が首を振ると、ドゥランテ先生は満足そうにうなずき、隣のエンツォに視線を送った。


「ここにいるエンツォが作曲の依頼を受けた。歌ってくれるソプラノとアルトを探しているんだが、二人とも引き受ける気はないかな?」


 驚きと喜びに私が固まった瞬間、リオが大きな声で答えていた。


「ぜひ、やらせてください!」




─ * ─




ついに来ました、外で歌う依頼。今度は合唱じゃないぞ!

依頼の詳細は授業後なので数話先(第80話)になります。78、79話は久しぶりにカッファレッリが稽古をつけてくれます。

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