78、音楽の流行は生き物みたいに変わっていく
「ぜひ、やらせてください!」
いつの間にか意欲的になっているリオが頼もしい。私も負けていられない。
「お願いします!」
と、ドゥランテ先生をまっすぐ見上げた。
「うむ、よいだろう」
うなずいたドゥランテ先生の口元にかすかな笑みが浮かんでいる。
「歌の稽古が終わったら私の部屋に来なさい」
ドゥランテ先生の部屋というのは、先生が受け持つ授業である対位法と合唱指揮で使っている教室のことだろう。
「二人とも、引き受けてくれてありがとう」
エンツォは私とリオに控え目な笑みを向けると、ドゥランテ先生を追いかけて部屋から出て行った。
扉がしまると、リオが両手で私の手を包み込んだ。
「やったね、オリヴィエーロ! 音楽院の外で、合唱以外の仕事ができるんだよ!」
「ねえオリヴィエーロ、僕たちの実力が認められたってことだよね!?」
リオは私の肩に腕を回して抱きしめた。
「そうだね。でも今の季節って人がいないから頼まれたのかも知れないけどね。上手な人はもっと重要な本番に駆り出されて――」
「馬鹿か、お前は」
カッファレッリの呆れ声が私の言葉を遮った。
「どんなに歌手が足りなくたって下手くそには頼まねえよ。お前らが上達したから依頼が来たんだ」
チェンバロの椅子の上で長い脚を組み、カッファレッリは言い放った。
「しっかり自分を褒めてやれ」
見下すような彼の視線は相変わらず優しいとは言えないが、私に自信をつけさせようとしてくれてるんだ。私は深くうなずいて彼の言葉を胸に刻み込んだ。
「さて、今日は何を聴こうか?」
カッファレッリは何事もなかったかのように軽い口調で尋ねた。
「あ、ボク、アジリタの練習がしたいんです」
私は鞄から、音楽院の図書室で借りてきたカンタータの楽譜を取り出す。楽譜整理の仕事をしていた先輩学生の手を借りて、華やかなアジリタが含まれる曲を探したのだ。
私がアジリタという技法を意識し出したのは、ハッセさんの紹介でセレナータのリハーサルを聴かせてもらったとき。とはいえあの日は、ファリネッリの超絶技巧にただ圧倒されただけだった。
だが劇場の中庭でカッファレッリがアジリタの練習をしているのを聴いてから、私も一段ずつ階段を登ろうと思うようになった。
そして合唱として参加した劇場で舞台袖から、
私は恐る恐る、カンタータの通奏低音譜をチェンバロの譜面台に乗せた。こんな難しい曲を持ってくるなんて早すぎると怒られたらどうしよう。
「アレッサンドロ・スカルラッティか。古臭いもん見つけてきたな」
幸い私の予想は外れ、カッファレッリは作曲家の名前をつぶやくと序曲部分をめくってアリアのページを開いた。
私は歌唱譜を譜面台に立てかけながら、
「古いの? この楽譜を見つけてくれた先輩は、スカルラッティ氏は今も王室礼拝堂の
「一応ポストにはついているらしいが、最近は体調を崩して自宅で療養してるみたいだぜ。なんて言ったか、あのザクセン人――」
カッファレッリは二、三度人差し指を振ったあとで、名前を思い出したらしい。
「ハッセ氏だっけ。彼がスカルラッティ氏を見舞ってるって聞いたぞ」
「そうなんだ。なんだか音程が取りにくい曲だなと思ったんだよね」
私は自分の能力の低さを曲のせいにする。カッファレッリは案の定、口の端を吊り上げたが、私の言葉をむしろ肯定した。
「半音の使い方がどうも聴き慣れねえ感じで歌いにくいんだよな。最近はもっとすっきりした様式が流行ってるけどな」
確かに修道院でカッファレッリが主役を歌ったレーオ先生の宗教劇は、明るく明快な曲調だった。
「音楽の流行ってなぁ生き物みてぇにどんどん変わっていっちまう。スカルラッティだって俺らが生まれる前は、超人気のオペラ作曲家だったらしいぜ」
そのオペラに出演した花形のカストラート歌手がいたんだろう。音楽は楽譜こそ残るものの、歌も演奏も時の流れに消えて行ってしまう。私たちは触れることのできない儚い美を求めて、日々鍛錬を積んでいるのだ。
私が感傷に浸っていると、カッファレッリがアルペジオで和音を弾いた。アリアと調が違うなと思っていたら、
「レチタティーヴォから行くか」
と声をかけられて私は焦った。
「あ、あの――アリアから見てもらえませんか?」
「ああん?」
いけない、今度こそ怒られる。
「お前なあ」
だが目をつむった私の上に降ってきたのは、盛大な呆れ声だった。
「劇場で聴いただろ? 歌手はアリアよりレチタティーヴォ歌ってる時間のほうが長いくらいなんだぜ?」
確かにオペラの物語部分はレチタティーヴォで進んでいく。登場人物たちはレチタティーヴォの形式で会話したり、胸の内を独白したりするのだ。感情が高まって頂点に達したとき舞台上の時間は止まり、見せ場のアリアが始まる。
観客が楽しみにしているのは間違いなくアリアだが、口答えする勇気のない私は黙ってカッファレッリのお説教に耳を傾けた。
「オリヴィエーロ、それからリオネッロも。お前ら二人、オペラシーズン中は客としても劇場に通ったほうがいいぞ」
「えっ」
「でも」
私とリオは同時に戸惑いの声を上げた。私たちが訴えたかったことなどカッファレッリにはお見通しらしく、
「お前らがまだ稼いでいなくてチケットを買えないのは知っている」
二の句を継ぐ前に言い当てられた。
「だが裏方や出演者と仲良くなれば楽屋口から入れてもらえることもあるし、お前らの後見人ジャンバッティスタに頼めば知り合いの貴族が押さえてるボックス席に連れて行ってもらえるかも知れねえ。音楽院の先生が作曲家なら、
輝く瞳の奥には、聡明とも狡猾とも呼べる光が踊っていた。
「意欲さえあれば金なんかなくても、いくらでも抜け道なんて見つかんだよ」
私たちに意欲がないと指摘されたようで悔しいが、私もリオも言い返せなかった。カッファレッリ自身が、そうやって学んできたことは明らかだから。
「音楽院で教えてくれるのは音楽だけだ。舞台上での振る舞いは人気歌手から盗むしかない」
なるほど、舞台に一瞬しか登場しなかったのに魅力的な彼の姿は、そうして形作られてきたのか。
宗教劇で見事な少女役を演じて見せたときも、どこでどうやって少女の仕草なんて身に着けたのかと不思議だったが、プロ歌手たちの演技を見て研究した成果だったんだ。
そういえばセレナータのリハーサルを見学したとき彼は、ファリネッリの歌う姿を穴が開くほど観察していた。
私だって本気で挑んでいるはずなのに、またもや違いを見せつけられて歯噛みしていると、
「どのくらいの速さで歌うつもりだ?」
カッファレッリは楽譜を見ながら、チェンバロでアリアの最初の音を鳴らした。私の願いを聞き入れて、アリアを見てくれるようだ。
私は背筋を伸ばすと深く息を吸い、無伴奏で歌い始めた。カッファレッリは各小節の頭でベース音だけ弾いて、私が音を取りやすくしてくれる。
だが最初の十六小節を歌いきり、短い間奏のために演奏を止めると苦言を呈された。
「速く歌えればいいってもんじゃない」
─ * ─
現代では演出家の先生から演技の指導も受けられますが、昔のカリキュラムを見ると、そういった科目はなかったように感じます。
さてオリヴィア、さっそく厳しい指摘を入れられました。
次回『スパルタレッスン、再び』
作者がイタリアで音楽院の教授に言われたことも含まれていたり、いなかったり笑
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