79、スパルタレッスン、再び

「速く歌えればいいってもんじゃない。音符のひとつひとつに響きがない」


 カッファレッリから早速、厳しい指摘が飛んでくる。


「声の美しさを犠牲にするな。しかもそんな響きのない声じゃあ客席のうしろまで届かないぞ」


 私は無言でうなずくことしかできない。合唱練習のあいまを縫って一人でコツコツと積み上げて行ったのに、訓練の方向性が間違っていたのか。すっかり意気消沈していると、


「石盤持ってきてるか?」


 と尋ねられたので、革の鞄から重い石盤を取り出した。


「貸してみろ」


 カッファレッリは私から石盤を奪うと、石筆で五線譜を書き出した。


「いいか? 毎日、最低三十分はこれを練習しろ。このメニューをこなしてからアリアを歌うんだ」


 練習課題を書いた石盤を私に渡しながら、


「最初は一音ずつ正しい発声で歌う。それから少しずつ速度を上げていく。大切なことは速く歌っても、一音ずつ歌っているときと同じように美しい音色を保つことだ」


 練習方法の指示をくれた。


 言われてみれば彼が劇場の中庭で一人アジリタの訓練をしていたとき、わずかでも響きが損なわれたら、遅い速度に戻して何度でも繰り返していた。


 石盤を受け取った両手にずっしりとした重みを感じる。


「何度も練習します」


「ああ。慣れたら半音ずつ移調して低い調や高い調もやるんだぞ」


「はい」


 鞄を置いた机の所へ戻りながら、落胆した私はポツリとつぶやいた。


「やっぱり曲を歌うのはまだ早かったな」


「バーカ」


 だがカッファレッリは耳聡みみざとく私の独り言を聞きつけた。


「歌ってみなきゃ何ができて何ができないかも分かんねえだろ。お前はさっきからウジウジうるせえんだよ」


 怒られてしまった。助けを求めるようにリオの方へ視線を送ると、


「オリヴィエーロは歌に関して自分に厳しすぎるよ。ほかのことと同じくらい自分を褒めていい気にさせてあげなきゃ」


 助け舟を出してはくれなかった。私は首をかしげ、


「ほかのこと?」


「そうだよ。オリヴィエーロは自分の外見の美しさや頭の良さには自信を持ってるでしょ?」


「えっ、いやそんな」


 リオの率直な物言いに私は焦った。


「だってオリヴィエーロ、夜になるとガラス窓に映る自分をいつも惚れ惚れと見つめてるじゃん」


 知られていたなんて! 熱くなる私の耳たぶを、カッファレッリの快活な笑い声がくすぐった。


「外見も含めて自分の魅力を愛するってなぁ、俺様たち舞台人には必要なことだぜ」


 カッファレッリの秘密の一端が見えた気がした。舞台上に現れた一瞬で人々の目を惹きつけたのは、彼自身が自分の魅力を一番よく分かっているからかも知れない。


 振り返った私を、カッファレッリの自信に満ちたまなざしが受け止めた。


「観客よりも誰よりも先に、自分が自分のファンになるんだ。分かったか?」


「はい!」


 私は自分でも驚くくらい元気な返事をしていた。


「さてリオネッロ。お前は何を持ってきたんだ?」


 カッファレッリがリオへ向き直る。


「僕、やっぱりまだ音域が低くなると声量が弱くなるんです」


 打ち明けながらリオが鞄から出したのは、夏前に私たちが参加した宗教劇の合唱譜だ。新しいソロ曲の譜読みをしていないあたり、のんびり屋さんのリオらしい。私が蒸し暑い図書室で蝉の声を聞きながら楽譜を探していたとき、リオはトニオと浜辺に遊びに行っていたもんな。


 リオは一切悪びれることなく合唱譜をカッファレッリに手渡しながら、


「半年前に劇場で第一男性歌手プリモウォーモのアリアを聞いたとき思ったんだ。同じソプラノなのに、彼は低音もむらなく大きな声で歌っているって」


「あのプリモウォーモとお前じゃあ声質が違うけどな。まあとりあえず歌ってみろ」


 カッファレッリが合唱曲の最初の和音を弾くと、リオは堂々と歌い始めた。初めて聴いたときよりずいぶん力強さを増したソプラノが初秋の風に乗り、さわやかに響き渡る。だがカッファレッリは眉間を険しく寄せて、苦言を呈した。


「無理に胸に響かせるな。響きが下に落ちると声がオケピに墜落しちまって客席まで届かないぞ?」


「この歌い方ダメなんだ。かっこいい声が出せるかと思ったのに」


 素直に落胆するリオに対し、カッファレッリはこれ見よがしに溜め息をついた。


「お前の声は明るくて軽い。その響きを失う必要はないんだ。常にお前の声で歌え」


 注意を受けたリオがもう一度同じフレーズを歌うと力強さこそ減ったものの、聴き慣れたリオの声らしいきらめきが戻ってきた。光の粒が舞い踊るかのような歌声に、やっぱりこれがリオの声だと確信する。


 カッファレッリもうなずいて、


「分かったか? それがお前の響きだぞ」


 と念を押す。


 以前のリオは、ほかの歌手から影響を受けたりしなかった。今は向上心を抱いた分、道に迷ってしまう危険があるんだ。歌を極めるというのは奥が深い。自分の声を見つけ、信じて磨いていくというのは人生そのものなのかも知れない。


 一人一人幸せの形は違うから、成功して見える他人の真似をしたって幸せになれるわけじゃないもんな、などと考えているうちに、リオの稽古は進んでいく。合唱曲とはいえソプラノパートは主旋律を歌うから、レッスン教材としても十分に成り立っているようだ。


 開け放した窓から時を告げる鐘の音が、授業時間の終わりを知らせる。


 カッファレッリは楽譜から目を離し、


「さあ、出て行った。あとは俺様の時間だ」


 と宣言した。 


 追い出された私たちには行くべきところがある。ドゥランテ先生が待っているんだ。


 ルイジおじさんが作ってくれた鞄を背負って教室を出た。閉めた扉の向こうから、カッファレッリのヴォカリーズが聞こえてくる。デビューが決まっても彼は変わらず丁寧に基礎練習を続けているようだ。


 様々な楽器の音が混ざり合う廊下を歩き、回廊を渡ってドゥランテ先生の部屋の前まで来ると、エンツォが立っていた。


「カッファレッリとの稽古、終わったのかい?」


 すらりと伸びた、長くて白い手を振る彼を見上げ、


「僕たちを待っていてくれたの? ドゥランテ先生は?」


 リオが尋ねた。


「先生は教会に宗教曲の指導をしに行ったよ」


 少し来るのが遅かったようだ。私が気落ちしたことにエンツォはすぐに気がついたらしい。


「大丈夫だよ。僕もドゥランテ先生と一緒に依頼主のジャルディーニ氏を訪問したんだ」


 彼も依頼内容の詳細を知っているのだろう。


「二人とも時間はあるかい?」


 私たちがうなずくとエンツォは階段の方へ向かって歩き出した。


「それじゃあ談話室で少し話そうか」




─ * ─




次回『リオとオリヴィアが受けた依頼の詳細』

病気の娘のために音楽家を呼ぶというジャルディーニ氏。彼らの状況が色々と明らかになります。

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