80、リオとオリヴィアが受けた依頼の詳細

 談話室の片隅にはチェンバロが置かれ、数人の生徒があれやこれやと議論しながら対位法の課題をこなしている。時々間違った和音が木組みの天井に跳ね返って、夏の間は使われていない暖炉から顔を出したヤモリが驚いて逃げていった。


 不規則に置かれた丸テーブルを囲んで談笑する学生もいれば、真剣な顔で楽譜をめくっている者もいた。


 あいている椅子に腰を下ろしたエンツォにならって、私とリオも着席する。


「えーっと何から話そうかな」


 長い指で頬をかいているエンツォに、


「本番はいつなの?」


 私は一番気になっていることを尋ねた。ドゥランテ先生は降誕祭ナターレ前の時期と言っていたが、正確な日付は聞いていない。


「まだ決まっていないんだ。ジャルディーニ氏はできるだけ早くと言っていたけれど、娘さんのために神聖な音楽を新たに書き下ろして欲しいっていう依頼だから、そんなにすぐは無理だよね」


「娘さんの誕生日祝いとかじゃないんだ」


 リオが意外そうに口をはさんだ。貴族にせよ裕福な市民にせよ音楽家を呼んで演奏会を依頼するのは、誕生日や結婚式など祝いの席が多い。


 エンツォは少し悲しげな表情でうなずいて、


「病にふせっている娘さんを音楽で元気づけてほしいっていう依頼だから。病気になる前は歌が大好きだったんだって」


「病気ならお医者様に見せた方が――」


 私の言葉にエンツォは首を振りささやいた。


「彼女は気鬱を患っているんだ。若い歌の先生と両想いなのに、父親が別の男と婚約させようとしたらしい。だから彼女がつらい記憶を思い出さないように、恋の歌ではなく神聖な音楽を、という依頼なんだ」


 エンツォが周囲の学生たちを気にしながら小声で説明してくれたところによると、ジャルディーニ氏は裕福な商人で、彼の資産に目を付けた没落貴族家から娘さんへ縁談が舞い込んだそうだ。貴族と親戚になれる未来に胸を躍らせたジャルディーニ氏は、嫌がる娘を説得して縁談を受けた。


 娘のビアンカさんは父のためだと自分に言い聞かせ、婚約者となる男に会った。だが彼は父親と同世代だった上、ビアンカさんをメイドのように扱ったという。


「うちは使用人を雇う経済力がないから庶民の娘を嫁にもらうことにしたと言われて、彼女は絶望したらしい。しかも嫁いだら歌の稽古も続けられないと知って、生きる意欲を失ってしまったんだ」


「それ、全面的に父親が悪いよ!」


 リオが大きな声を出したので、談話室にいた数人の学生が振り返った。


「ビアンカさんが可哀想!」


 やっぱりリオは優しい。私は腕組みして、エンツォにこっそり尋ねた。


「その歌の先生って声種は?」


 すぐに質問の意図を察したエンツォが眉尻を下げ、口の端を吊り上げた。


「僕たちと同じ、高音歌手さ」


 彼は皮肉な笑みを浮かべているようにも、泣き出しそうにも見えた。


「つまり」


 私はエンツォと目を合わさずに続けた。


「ビアンカさんの恋は決して実らない」


「歌手の想いもね」


 エンツォが付け足した。教会は、生殖能力を奪われた彼らに対し結婚を禁じている。


 三人の間に沈黙が落ち、対位法の課題に四苦八苦している学生たちが奏でる、調子はずれなチェンバロの音だけがむなしく響いた。


「そこに僕たちが歌いに行くの?」


 乾いた声で尋ねたのはリオだった。


「いくら恋の歌じゃなくたって、色々思い出させてしまうんじゃ?」


「そもそも男性高音歌手に目がないのはジャルディーニ氏自身なのさ」


 エンツォは肩をすくめ、言葉を続けた。


「去年かおととしか、カッファレッリも彼のサロンで歌っていたよ。ビアンカさんの歌の先生も、数年前に音楽院を卒業した若い男性ソプラノらしい。ジャルディーニ氏がいたく気に入ってパトロンになったんだ」


 エンツォの説明にリオは半ば呆れている。


「問題の種を蒔いたのはジャルディーニ氏自身じゃん」


「そうとも言えるが、音楽家のほとんどが男だ。結婚前の若い女性に何か間違いがあったらいけないから、僕たちのような男が音楽教師になるほうが、幾分か安全だろ?」


 エンツォの冷静な声にリオは複雑な表情で黙り込んだ。逆に私は身を乗り出し、


「ビアンカさんとその音楽教師、実は結構進んでるの? どこまで行ってるんだろ!?」


「オリヴィエーロ」


 エンツォの冷たい視線で私は我に返った。つい暴走しちゃった!


 小さくなる私にエンツォは苦笑しつつ、


「僕が言うことじゃないが、君もずいぶん変わったね。最初に会ったときは上級生の顔に熱々のミルクを引っかけて、まるで田舎の暴力サルだったけど、今じゃそういう話にも興味が湧くようになったんだ」


 言われ放題で悔しいけれど言い返せない。


 リオがふくれっ面して、


「エンツォ、オリヴィエーロをいじめないで」


 ちゃんと味方してくれた。


「それでボクたちが歌う曲は仕上がってるの、マエストロ?」


 私が生意気な口調で尋ねると、エンツォは真面目な表情に戻ってうなずいた。


粗方あらかたできあがっている。あとは清書するだけさ。でもその前に君たちの声を聴いて確認したいと思ってるんだ」


 リオがぱっと顔を輝かせ、


「わぁ、歌ってみたいな!」


「あいている教室を探そうか」


 エンツォが立ち上がった。私も椅子を引きながら、エンツォを見上げる。


「聖歌なんだよね?」


「ああ、言っていなかったね。テキストはサルヴェ・レジーナだよ」


 サルヴェ・レジーナは聖母マリア様への祈り。憐み深いマリア様にすがり、魂の慰めを求めるテキストだ。


「修道院では毎晩、眠る前に歌われる最後の祈りなんだ」


 エンツォは楽譜が入っているであろう重そうな鞄を抱きかかえた。


「だから今回の依頼でも娘さんが寝る前に歌って、彼女を安眠に誘ってほしいと依頼されている」


「あ、チェンバロがあいたよ!」


 リオが弾んだ声で壁際を指さした。対位法の課題とにらめっこしていた学生たちは、次の授業があるのか連れ立って談話室から出て行った。


「ちょうど良い」


 エンツォは機嫌のよさそうな声を出し、チェンバロの椅子に鞄を置くと、中から手書きした楽譜の束を取り出した。


 だが私は歌う前にひとつ、どうしても確認したいことがあった。


「エンツォは本当にボクたちが歌手でいいの?」


 私の問いに振り返ったエンツォは片手に楽譜を持ったまま、きょとんとしている。


「ある意味エンツォの作曲家デビューだしさ、もっとうまい上級生に歌って欲しかったんじゃないかと思って」 




─ * ─



エンツォの答えは?

次回『リオとオリヴィアが選ばれた理由』です!

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