81、リオとオリヴィアが選ばれた理由

「ある意味エンツォの作曲家デビューだしさ、もっとうまい上級生に歌って欲しかったんじゃないかと思って」 


 こんな自信のない発言をカッファレッリに聞かれたら、楽譜の束で頭をはたかれそうだ。でも奥歯に物がはさまったような気持ちのまま進みたくない。


 エンツォはふと柔らかい笑みを浮かべた。


「君たちに歌って欲しいと言い出したのは僕なんだよ」


「えっ」


 私は言葉を失った。


「屋上で君たちの歌を聴いたとき、僕は心の底から救われたんだ」


 エンツォはチェンバロの譜面台に楽譜を置くと、どこか遠くを見つめた。


「ビアンカさんが生きる希望を失っていると聞いて、あのときの僕に似ていると思った」


 エンツォは屋上から飛び降りようとしていたのだと私は思い出した。


「彼女にもう一度希望を取り戻してもらうには、僕の心を変えてくれたオリヴィエーロとリオネッロの歌声が必要だと確信したんだ」


「そう、だったんだ――」


 私はそれだけ言うのが精一杯だった。代わりにリオがエンツォの手を握って、


「僕たちを選んでくれてありがとう!」


 明るい声で感謝を伝えた。


「推薦しただけだけどね」


 エンツォは照れ笑いを浮かべる。


「もしドゥランテ先生が反対したら、僕には意見を通す力なんて無いし」


 その言葉にドキッとした私は、ドゥランテ先生のどこか冷たい横顔を思い出しながら恐る恐る尋ねた。


「エンツォが私たちの名前を出したとき、先生なんて言ってた?」


「先生もちょうどオリヴィエーロたちに頼みたいと思っていたんだって」 


 エンツォの穏やかな笑顔に、私の胸にくすぶっていた不安はとかされた。


 リオがさっそく、楽譜のソプラノ記号を指さして、


「これが僕のパートだね」


 と身を乗り出す。ソプラノ、アルト、テノールといった歌のパートはハ音記号で記譜されている。音部記号自体は同じ形だが、ソプラノパートは第一線が中央ハ音であることを示すソプラノ記号、アルトパートは第三線が中央ハ音であることを示すアルト記号で記されているのだ。だから音部記号の位置を見ただけで、どれが自分のパートか分かる仕組みになっている。


 ただしバスパートだけは普通、楽器の通奏低音と同じヘ音記号で記されている。


「サールヴェ、サルヴェ・レジーナ、マーテル・ミゼリコルディエ――」


 リオがよっちよっちと譜読みを始めると、


「まずはテキストを音読してごらん」


 エンツォが妥当な指示を出した。


 私たちが声をそろえてラテン語を朗読しているあいだにエンツォは、手早くチェンバロの調律を済ませる。


「それじゃあ僕の後について読んでみようか」


 エンツォは流れるような抑揚をつけてラテン語のテキストを読み上げた。男性にも女性にも聞こえる彼の声は少しハスキーで、性別を超越した響きは不思議と魅力的だった。この人は天使にも悪魔にもなれるのかも知れない。


Salve regina幸いあれ元后, mater misericordiae憐み深き母よ


 エンツォの発音を真似して音読すると、私たちのラテン語もスムーズになった。


「うん、いいね。それじゃあ一度、全体を通して弾いてみるから聴いていてくれ」


 エンツォの長い指が木の鍵盤をなめらかにすべり、生まれたばかりの音楽をこの世界に解き放つ。


 シンプルで親しみやすいのに情緒的な旋律は、彼の師であるポルポラ先生とは少し様式が異なっている。レーオ先生やドゥランテ先生とも違うのは、エンツォが新しい世代の作曲家だからだろうか? 軽やかな曲調はハッセさんに近いけれど、エンツォの曲には切ないメロディが詰め込まれていた。


 若い世代の私たちが、今まさに次の流行を作って行くのだと思うと胸が高鳴る。


 二十分くらい弾き続けたあとで、エンツォは曲を締めくくった。


「どうかな?」


 緊張した声で、楽譜を目で追っていた私たちに尋ねる。


「かっこいい!」


 リオが目を輝かせたので、私もうなずいた。


「うん、響きがおしゃれ。素敵な曲だけど、ソプラノとアルトが二度とか七度とかで重なるところが難しそう」


「そこがかっこいいんじゃん」


 リオは平然と言ってのける。ソプラノは気楽なものだ。私だって不協和音が魅力的なスパイスになっていることくらい分かるが、自分がアルトパートを歌うとなると話は別だ。


 エンツォは不安がる私を振り返り、


「ドゥランテ先生は、オリヴィエーロなら歌えるって言ってたけどね」


 笑顔で太鼓判を押した。


「じゃあオリヴィエーロから譜読みを始めようか。リオネッロはアルトパートをよく聴いていてね。ソプラノパートもリズムや音型は共通しているから」


 エンツォは必要な音をチェンバロで弾きながら、裏声でアルトパートを歌ってくれた。裏声歌手ファルセッティストにありがちなどこかうつろな響きではあるものの、正確無比なピッチと自然な母音の形は私の未熟な歌唱を大いに助けてくれる。


 劇場の廊下で一人練習していた頃と比べると、エンツォの歌声は随分安定していた。作曲だけでなく発声の訓練も積んでいるに違いない。理由も分からず低く、扱いにくくなってしまった声帯を操るすべを探し当てたのだろう。今のエンツォなら、私とリオが数ヶ月暮らしていた田舎の教会なら充分、聖歌隊の仕事にありつけそうだ。元神童の彼がそんなことを望むはずはないが。


 アルトパートを一通り最後までさらったあとで、エンツォは私に笑みを向けた。


「オリヴィエーロは大丈夫そうだね。君は音感もリズム感も優れている。耳がいいんだと思うよ」


 褒められてしまった! 私が返す言葉を探していると、


「エンツォ知ってる? オリヴィエーロのお母さんは歌手で、お父さんは楽器職人で、オリヴィエーロは英才教育を受けて育ったんだよ!」


 リオが自慢したので驚いた。そんな風に思われていたなんて知らなかった。私はむしろ、幼い頃から教会の聖歌隊で歌えたリオをうらやましがっていたのに。


「それじゃあ神様は、オリヴィエーロを音楽家にしようと思って君の魂をお母さんの体の中に吹き込んだんだ」


 エンツォが思いがけない新説を披露した。


「えーいいな。僕は?」


 リオが無邪気に尋ねると、エンツォは優しいほほ笑みを浮かべ、


「もちろん君も僕も、音楽の才能で人を幸せにする宿命を受けて生まれてきたのさ」


 自信に満ちた口調で言い切った。いつもカッファレッリの型破りな発言に圧倒されていたが、こっちのお兄さんも大概だ。悪魔の影響を受けていた頃の彼は、使命を果たせないなら死んだほうがマシだとでも思っていたのだろうか? 危うい自尊心の強さこそ、心優しいリオが手を差し伸べたくなる部分なのかしら?


 私がちょっと意地悪なことを考えているうちに、エンツォはソプラノパートをオクターブ下で歌ってリオの譜読みを手伝っていた。私が歌うアルトパートを聴いた後だからか、リオはいつもと比べて習得が早い。


エンツォは危ない兄ちゃんではあるが、指導力は確かなようだ。きめ細やかな手ほどきを受け、私たちは数時間も経たないうちにゆっくりとデュエットできるまでになった。


 エンツォは右手で私たちが歌う旋律を弾きながら、左手でベースラインを抑えつつ、さらには和声まで加えた。手が三本あるのかと思うほど巧みに伴奏しながら、私たちの声に耳を傾けているらしい。


「オリヴィエーロの中音域は肉感的というか、色気があるね。もっとこの音域を増やそう」


 エンツォは小箱から取り出した羽根ペンの先を携帯用のインク壺につけた。楽譜に何やら書き込んでから、今度はソプラノパートを指さした。


「ここはそのまま高音に上がってみようか」


 チェンバロで手本を弾き、リオに歌ってもらって確認する。


 しばらく試行錯誤を繰り返したのち、


「よし、これでドゥランテ先生の意見を聞こう」


 エンツォは満足そうに楽譜を最初からめくって眺めた。


「ポルポラ先生に習ってるんじゃないの?」


 リオが質問すると、エンツォは筆記具を鞄にしまいながら答えた。


「カンタータやオペラの様式はポルポラ先生のご自宅へ通って学んでいるよ。でも神聖な音楽はドゥランテ先生の得意とするところだからね」


 世俗曲と宗教音楽で習う師匠を変えているということらしい。


 そして必然的に、私とリオはドゥランテ先生の前で歌うことになったのだ。




─ * ─




オリヴィアはドゥランテ先生を恐れていたけれど、先生は二人の実力をかってくれていた? ドゥランテ先生のレッスンは84話となります。


※現代ではソプラノでもアルトでも歌の楽譜はト音記号で記譜されていますが、バロック時代の楽譜はハ音記号で記譜され、しかもパートによって中央ハ音(ド)の位置が変わったのです! 読みにくいんじゃー!!


次回は『エンツォの指導も別方向にスパルタだった!』

オリヴィアたちはついていけるのか?

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