82、エンツォの指導も別方向にスパルタだった!
一週間と待たずして、私とリオはエンツォから清書した楽譜を手渡された。私たちは二人でひとつの楽譜を見ながら毎日練習していた。
「なんかリオ、だんだん遅くなってない?」
「気持ちを込めてレガートに歌うと遅くなっちゃうんだよ」
音楽に関して私たちは遠慮せず、忌憚ない意見を言い合う関係になった。
「でもオリヴィア、この曲そんなに速くないと思うよ」
練習に行き詰まったところでちょうどよく、エンツォが私たちの屋根裏部屋を訪れた。
「無伴奏で練習すると音程が取りにくいだろ? テオルボを借りてきたよ」
扉を開けると、テオルボの長いネックが低い天井にぶつからないか神経質に見上げながら、エンツォがせまい階段に立っていた。テオルボは歴史ある弦楽器リュートの一種で、チェンバロのようにきらびやかな音色ではないが、低音の豊かな響きが特徴だ。
「失礼するよ」
屋根裏部屋に入ってきたエンツォはリオのベッドの足元に腰掛けると、ネックの途中に並んだ小さな木ペグに触れて調弦を始めた。静かな屋根裏部屋にやわらかい音色が染み渡り、窓から薄暗い室内に差し込む陽光が、エンツォの陶器のような頬を照らし出す。端正な顔をかしげて震える弦に耳を澄ます彼の姿は、一幅の絵画のようだ。
指板の上を走る弦をチューニングし終えると彼は立ち上がり、私とリオの身長より高い位置についたペグを回して低音を調弦し出した。
テオルボは一目で弦の本数が多いと分かる楽器だから、ヴァイオリンのようにすぐチューニングが終わるわけではないのは明白だ。私たちは大人しく待っていた。
「それじゃあ最初の部分から始めよう」
エンツォに声をかけられて、私は楽譜を持って立ち上がった。リオが横に並び、エンツォの伴奏で歌い始める――が、すぐに止められた。
「リオネッロ、ファのあたりからピッチが上ずってるよ」
うなずいてリオは歌い直したが、なかなか先へ進む許可がもらえない。ようやく合格して次の小節を歌い始めると、今度は私が注意を受けた。
「オリヴィエーロ、今の半音、ちょっと広すぎるね」
エンツォの口調は始終おだやかで、同じ箇所を何度繰り返しても苛立ちはしなかった。だがそれは、音程の問題で無限に反復練習させられることを意味する。
エンツォ自身は声を失ってもピッチの正確さに定評があり、合唱ではメンバーの音程を先導する役割を担ってテノールパートに加えられていた。私は深く考えず、エンツォは音感が良いんだと思っていたが、これほど几帳面にピッチと向き合っているから正確に歌えたんだ。
正しい音程で歌おうと努めると、針の穴に糸を通すように神経を使い続けるので、ヘトヘトになる。
「どうやったら正しいピッチで歌えるんでしょう?」
疲れ果てて尋ねると、
「喉で音程をコントロールするんじゃなくて、お腹で音を取るようにしてみて」
辛抱強いエンツォは、これっぽっちも疲れの見えない声で答えた。
「それから響きの焦点を動かさず、常に一点をキープするイメージで」
曲は五つの部分に分かれていた。ようやく最初の部分が終わると、エンツォは休憩もはさまずに、
「じゃあ次はアドゥ・テ・クラマームスに行こう」
と楽譜をめくった。
「ちょっと待って、エンツォ。もうクタクタだよ」
リオが音を上げて、私は正直ほっと胸をなでおろした。
「そうかい?」
エンツォは心底驚いた顔をする。それから慌てて眉を下げ、
「ごめんよ。気付かなくて」
と、私たちを気遣った。
「続きは明日にするかい?」
私とリオはすぐさま首を縦に振った。
楽譜をまとめるエンツォに、リオは悪びれずに話しかける。
「エンツォはピッチに厳しいね。僕たちはいつもカッファレッリに習ってるけど、彼は表現重視だからびっくりしちゃった」
リオが無邪気にカッファレッリの話を始めたので、私は肝を冷やして目配せをするが、リオは気づかず話を続ける。
「あとは響きを注意されるかな。そんな歌い方じゃ客席に声が届かないとか言ってね」
だが私は無用な心配をしていたようだ。エンツォは学者のような面差しのまま答えた。
「カッファレッリは常に劇場を意識しているんだろうね。今回の『サルヴェ・レジーナ』は個人宅で歌う室内楽だから、劇場や教会のように広い場所で歌うのとは随分違うよ」
淡々と語るエンツォの言葉に私はハッとした。私が今まで歌ってきたのは教会の
「邸宅のサロンで歌う場合は、教会や劇場と比べて聴き手との距離が近い。すると声量はあまり求められないし、大げさな表現をせずとも息遣いまでが繊細に伝わる」
目の前にお客さんがいると思うと緊張しそうだ、などと考える私には気付かず、エンツォは話を続ける。
「さらに言えば、自宅に音楽家を呼ぶ依頼主には音楽
エンツォは楽譜を鞄にしまうと、あごに手を当てて低い天井を見つめた。
「オリヴィエーロ、リオネッロ、君たちピエール・フランチェスコ・トージ氏が書いた歌の教科書を読んだことはなかったかな?」
「えっ、誰?」
「トージ氏は昔の男性ソプラノさ。今は七十歳くらいなんじゃないかな。引退して久しいよ。僕も現役時代の歌声を聴いたことはないけれど、教師としても活躍したらしい。名前くらい耳にしたことあるかい?」
私とリオがそろって首を振ると、エンツォはまた天井をにらんで記憶を探り始めた。
「おととしだったかな、ボローニャで『
本を読んで歌について学べるなんて考えたこともなかった! 私は身を乗り出していた。
「その本どこに行けば読めるの? ボローニャ?」
「いやいや」
エンツォはくしゃっと人懐っこい笑みを浮かべた。
「音楽院の図書室に所蔵されているよ。学生の持ち出しはできないけれど閲覧なら可能だ」
知らなかった! エンツォはそうやって知識を増やしていたのか。
違う先輩に教われば、また新たな世界が広がるんだ。エンツォとの稽古はカッファレッリとは別方向に厳しいけれど、大いに得るものがある。
屋根裏から降りていくエンツォの足音がゆっくりと遠ざかるのを聴きながら、リオが私を振り返った。
「三つの様式があるって話、昔ジャンバッティスタがしていたよね」
「そうだっけ?」
「うん。僕たちが村を出た日、馬車でチヴィタヴェッキアっていう港町に行ったでしょ?」
ルイジおじさんのあばら家で暮らした日々がずっと昔に思える。道すがら、ジャンバッティスタは私たちの知らない世界に関する話を色々と聞かせてくれた。つねにどこか見下した態度で気に食わなかったが――
「あ、馬車の中で!」
記憶をさかのぼっていた私は、ぽんと手をたたいた。
「言ってたね、あいつ。私たちが教会音楽しか知らないから劇場に憧れてるみたいだけど、貴族の屋敷で演奏されるカンタータや室内楽も重要なジャンルだとか」
「そう、それ」
リオも人差し指を振り下ろし、
「ジャンバッティスタみたいな、自分は歌手じゃないけど耳だけ肥えた愛好家が目の前で聴くって考えたら、きちんと勉強しなきゃだめかも」
ベッドに背中から倒れ込んだ。両手両足を広げてあきらめの表情になったリオを見て、私は思わず笑いだす。
「確かに。振る舞いも含めて抜かりなく整えておかないと鼻で笑われそうよね」
ジャンバッティスタの話を聞いていたときは雲をつかむように現実味がなかった。だが今、私たちは数年前に憧れた場所に立っていて、ぼんやりとしか想像できなかった光景が手で触れられる日常になっているんだ。
─ * ─
テオルボの画像はこちら↓ ネックがめっちゃ長いんです!
https://en.wikipedia.org/wiki/Theorbo#/media/File:ScottPauleytheorbo.jpg
(ウィキペディアより)
教則本を読んでみたくてたまらないオリヴィア、実現なるか!?
次回『本を読みたい! 図書室に突撃だ!』
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