91、エンツォはやっぱり面倒くさい

 緊張がほぐれたのか、寄宿舎へ帰る馬車の中でエンツォは泣き出した。


「伴奏まちがえちゃって本当にごめん」


 月明りに照らされた白磁の頬を一滴の涙が伝う。泣かれても困るので、私は気付かないふりをして車窓の夜景に目を向けた。


「エンツォだけのせいじゃないよ。ボクも新たな課題が見えたし」


 これは本心だ。エンツォは弾く内容をまちがえたが、演奏を止めることはなかった。だが私は歌えなくなってしまったのだ。共演者がミスをしても全く動じないリオを見習わなければならない。


 深く反省していたら、私の隣に座っていたリオが揺れる馬車の中で立ち上がり、エンツォの横に移動した。急にどうしたのかと見守る私の前で、


「泣いたらだめだよ、エンツォ」


 あろうことかリオはエンツォの髪を撫でてやったのだ!


 なんで!? と問い詰めたいのをかろうじてこらえる。


 泣いたらリオになでなでしてもらえるの!? ずるい! 私だってリオになぐさめてもらいたいのに!


 先に泣かれてしまい、むすっとしている私をどう勘違いしたのか、


「エンツォ、オリヴィエーロをご覧。いつもクールでかっこいいじゃないか」


 リオが私を振り返った。エンツォは手の甲でごしごしと目元をぬぐいながら、


「うん、見習うよ」


 と、めそめそしやがる。ったく、ついてんのか、この男は!?


 あー、ついてないんだった。私は片手のひらで額を覆った。もうシャレになんない。


「ごめんオリヴィエーロ、呆れないで?」


 エンツォが涙ながらに訴えてくる。


 こんな繊細な男だから、感傷的で心に訴えかけるメロディを書けたのだろうと私は納得することにした。彼の欠点はきっと才能の裏返しなのだ。


「君たちは知らないよね。僕が幼い生徒だったころ、陰でなんと呼ばれていたか」


 少し落ち着いたエンツォは涙ながらに語り始めた。


「神童でしょ?」


 私の冷ややかな問いに、


「半分当たり」


 エンツォは皮肉っぽい笑みを浮かべて悲しげに答えた。


「リハーサルでは神童、本番ではただの人」


「えっと、ただの人ならいいじゃないですか。落ちこぼれじゃないんだから」


 我ながらフォローになっていない。


「はぁ。やっぱり僕には舞台なんて向いていなかったんだ」


 大きなため息を吐くエンツォにかける言葉が見つからない。今夜だって、機転を利かせて活躍したのは一番年下のリオなのだから。そのリオは何も言わず、エンツォの膝をあやすように優しくたたいている。


「僕は会ったばかりの頃、リオの故郷の先生をけなしてしまったことがあったね」


 思いがけないエンツォの言葉に、リオの手が止まった。


「あれは僕が、あるがままの自分を受け入れられなかったからなんだ」


 エンツォは訥々とつとつと語りだした。


「高い声で歌うよう運命づけられてしまった以上、僕は栄光への階段を登り、果てしない名声と莫大な報酬を受け取らなければならないと信じ込んでいた。本心では競争にさらされたり、大勢のお客さんの前で歌うことなど望んではいなかったのに、自分をだましていたんだ」


 秋夜の冷気にエンツォのやわらかいテノールが、悲しげにとけてゆく。


「だから神様は僕から声を取り上げてしまったんだよ」


 神様はこれほど残酷な罰を与えるのだろうか? 私が頭の中で反論を組み立てていると、リオが口を開いた。


「エンツォは自分をだましていたんじゃなくて真面目すぎたんだよ。歌手になるならトップを目指さなきゃいけないと思いこんでいたんでしょ?」


 リオは優しい声音のまま言葉を続けた。


「まずは自分のために歌えばいいと思うよ。神様のためとか、お客さんのためとか二の次」


 ええーっ、今までリオってそういう意識で歌ってたの!?


 私とエンツォがあっけに取られている間にリオは淡々と、


「僕は第一に自分の楽しみのため、第二にオリヴィエーロに捧げるために歌ってる。その次はまだない」


 とんでもない発言をした。


 だがもしかしたらこの精神が、本番で緊張しない秘訣なのではないか? リオはお客さんを心に入れていないのかもしれない。自分自身と私のことだけ考えて歌うなら練習と変わらない。


 とはいえ正しいかどうかは別にして、真似するのは容易なことではない。


 もしかしたら歌手たちは皆プロとして世に出るまでに、一人一人、自分だけの心の有りようを見つけているのかもしれない。


 エンツォがふと吐息をもらした。


「神様のため、依頼主のために歌うならよいよ。僕は成功するために歌ってたんだ。音楽の守護聖人チェチーリアに怒られてしまうね」


 彼の言葉が途切れると同時に、ひづめと車輪の音が止まった。


 馬車の高い窓からのぞくと、夜だというのに寄宿舎の門が開いている。私たちが帰ってくるのを待っていてくれたようだ。


 大きな本番を一つ終えて私は安堵するとともに、おそらくまた次の依頼につながるのだろうと、ひそかに期待していた。だがつながった先は思いもかけない未来で、私は喜ぶより戦慄を覚えることとなった。




─ * ─




オリヴィアが戦慄を覚えた次の依頼とは!?

次回すぐに明かされます。

次の話が第四幕最終話となります!

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