90、新たな計画

「あなた、女の子でしょう?」


 不意にかけられた言葉に、私の喉がひゅっと音を立てた。息苦しいほど心臓が鼓動を打ち、耳の奥で血の流れる音が聞こえる気がした。


「何をおっしゃいますやら」


 私はなんとか唇を笑みの形に曲げ、震える声でごまかした。


「隠してもだめよ。分かるんだから」


「なぜそのようなことを?」


 眉をひそめて、まるで理解できないという演技をする。だが私の声はかすれていた。我ながら肯定しているようなものだ。


「私もあなたと同じだから。恋をしているからよ」


 ビアンカは断言した。演奏会中、彼女は私とリオのつないだ手をじっと見ていたし、演奏後も抱き合う私たちに気付いてうっすらと笑みを浮かべていた。私とリオが交わす視線から見抜いたというのか。だが決定的な証拠はないはずだ。


「何をおっしゃっているのかボクにはわけが――」


「私、歌の練習を頑張るわ。あなたのように愛する人と共にいるために」


 ビアンカは私の言葉をさえぎって公然と表明した。まさか男装して歌手を目指すというのか? 贅沢な暮らしをしたいだけのお嬢様が何を言っているのか。


 背中を押し付けた大理石の彫像から硬質な冷気を感じながら、私は低い声で忠告した。


「愚かな冒険をするものではありませんよ、お嬢様」


「同じ危険を冒しているあなたに言われたくないわ」


 彼女の細い指が痛いほど腕に食い込んでくる。だが私はひるむことなく、彼女の痩せた顔の中で強烈な意志を放つ二つのまなこを真正面から見据えた。


「恋心で乗り越えられるほど音楽の道は甘くありません!」


「言ったわね? なんて生意気な小娘! この想いは捨てようとすれば私の身をむしばむのよ。それなら生きる力に変えるしかないわ。彼と一緒にいるためなら私はなんだって出来るのだから!」


 不屈の闘志を宿したその瞳には見覚えがあった。ほとんど食べなかったせいでうるおいを失った黒髪も、あばら骨の浮き出た胸元も、三年前の私自身だった。


 私はすっかり忘れていた。今や音楽学生気取りで図書室に通って教則本を読み、専門的な指導を受けて自尊心を身に着けてしまったが、私がこの世界に入ったのは愛するリオと共に生きるためだった。


 もちろんリオと出会う前から音楽を愛し、歌うことに喜びを感じていた。でもそれはビアンカとて同じだろう。


「それなら」


 私はニヤリと笑って、ドゥランテ先生から学んだ言い回しを使った。


「心躍る挑戦ですね」


「本当に憎らしい子!」


 ビアンカは私の、つややかに波打つ黒髪を引っ張った。


「あんたの恋人は素直でかわいいのに!」


「ありがとう。リオは天使なんです」


 私は満面の笑みで答えてやった。


「行くわよ」


 ビアンカは再び私の腕を引っ張り、階段の方へ連れ出した。


「みんな食堂で待ってるわ」


 彼女と並んで階段を降りながら私は尋ねた。 


「でもあなたの愛する歌手は旅に出るより、ジャルディーニさんの庇護下で安定した音楽活動を続けたいのでは?」


 我ながらお節介だとは思うが、二人の将来が気になってしまう。


 だがビアンカはしっかりと首を振った。


「彼は腕試しをしにロンドンへ行きたがっているの。でも父が手放さないせいで外国へ歌いに行けないのよ」


 踊り場に差し掛かるとビアンカは足を止め、小声でささやいた。


「本当かどうか分からないけれど、彼が歌手仲間から仕入れた情報によると大ブリテン王国でなら私たち、一緒に暮らせるかもって」


「教皇様のお力が及ばないから」


 納得した私は、だがすぐに別の疑問にぶつかった。


「一緒に暮らせるならビアンカさんが男装して歌手になる必要ないと思うんだけど」


「つまんない子ね。こんな面白そうなアイディアをのがす手はないじゃないの。お父様の商売に悪知恵を貸すより、贅沢三昧するより、もっとスリリングだわ」


 なるほど、スリルを求めて未来の夫を毒殺する計画を立てていたのか。こんな危ない人間は一般社会にいても人に害を為すだけだから、劇場という非日常で舞台の興奮に身をゆだねてくれた方が世のためかもしれない。


 食堂へ降りると皆、長テーブルを囲んで私たちを待っていた。


「遅かったではないか」


 不満をあらわにするジャルディーニ氏にビアンカは、


「演奏会の感想を伝えておりましたら、つい音楽の話に花が咲いてしまって」


 すらすらと嘘を並べた。


「分かるぞ、ビアンカ。わしもここにいる若き作曲家エンツォ君と対位法の話で盛り上がっていたところだ」


 ジャルディーニ氏に背中をたたかれているエンツォは、疲れ切った顔に愛想笑いを浮かべている。若い音楽家が成功の階段を登っていくには、パトロンとの会話力も必要なのかも知れない。


「子供たちにオレンジを絞ってやれ」


 ジャルディーニ氏が使用人に指示を出す。


 一方私は椅子を引いてもらって座るという慣れない経験に戸惑っていた。


 向かいでは、ビアンカがネグリジェの肩にダウンをかけられている。お嬢様がネグリジェ姿で食堂に出てきたり、部屋の四隅に裸のギリシャ風彫刻が立っていたりと、やはり彼らは庶民から成り上がってきたのだろう。


 だがそんなことはクッキーを一口かじった瞬間、霧散した。


「何これ。甘い」


 舌が快感に打ち震えて、それ以上言葉が出てこない。


「そりゃお砂糖が入ってるんだから甘いわよ。お菓子を食べたことなくて?」


 ビアンカが冷ややかな視線を向けてくるのが腹立たしい。私の母さんだって蜂蜜を使った焼き菓子を作ってくれた。イチジクと胡桃クルミが入っていて優しい甘みに包まれたものだ。だが今、私が食べているクッキーの鮮烈な甘さはまるで別物なのだ。


 理由を教えてくれたのは斜め向かいに座ったエンツォだった。


「たっぷりと砂糖が入っているから、オリヴィエーロが田舎の村で食べ慣れた自然な甘さとは違うんだよ」


 せっかくナポリ王国の都に出てきたというのに、音楽院寄宿舎の質素な食事ばかり食べていた私は、ふんだんに砂糖を使った甘いクッキーを知らなかったのだ。


「リコッタとオレンジピールを入れてるの。おいしいでしょう」


 ビアンカさんが自慢げに高説を垂れた。リコッタは味の薄い淡白なチーズで、寄宿舎の食堂でもよく食べるのだが、こんなおいしい利用法があったとは知らなかった。


 すっかり満足した私たちは、使用人に案内されて中庭に停まる馬車まで戻ることとなった。ジャルディーニ父娘とは食堂でお別れだ。


「とても良かったぞ。また歌いに来てくれたまえ」


 ジャルディーニ氏は、赤ん坊の手を巨大にしたかのようなプクプクとふくらんだ手で、私たち一人一人と握手してくれた。


 私は去りぎわ、ビアンカさんに一言だけ伝えた。


「幸せになってください」


「ええ、どんな手段を使っても」


 彼女の声には揺るぎない自信がこもっていた。だがふと表情をやわらげ、


「ありがとう、オリヴィエーロ。私に光を見せてくれて」


 小声で付け加えた。その言葉だけで充分だった。


 ――いや、クッキーもおいしかったから、やっぱり充分じゃないか。


 でも私とリオは、また歌うことで悪魔に囚われた魂を解放したのだ。なぜ私たちの歌声に不思議な力が宿っているのかは分からない。私たち以外に男女の双子がいるという話も聞いた。


 まだ謎だらけだが、エンツォの書いた美しい旋律を歌うたび、彼を失わなくて済んで良かったという思いを噛みしめた。


 そのエンツォは今、馬車の中で涙を流していた。




─ * ─




エンツォはなぜ泣いているのか?

次回『エンツォはやっぱり面倒くさい』です!

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