89、ビアンカの本性と見抜かれた秘密

 ビアンカさんは私と目が合うとすぐに視線を外したが、血の気のなかった頬にぱっと朱が差した。


「純粋な少女だった頃の私――そう、今はほんの欠片しか残っていないけれど。彼への想いはこんな私の、唯一残った純粋な部分だったんだわ」


「それを手放すよう、わしが仕向けたのだな」


 うなだれるジャルディーニ氏は、使用人がビアンカさんのために用意した椅子に座っていた。


「お父様、それは違うわ。私は一時の恋におぼれて目指す場所を忘れるような、頭の悪い女じゃない。自ら子供じみた恋心など捨てたのよ」


「だがその結果お前は寝込んでしまったじゃないか」


「ええ」


 ビアンカさんの勝気な目元から涙がこぼれて、私はぎょっとした。彼女は依然にらむように一点を見据えたままなのに、一筋の雫が尖った顎へと落ちていく。


「おかしいわね。全て私の選択だったはずなのに」


 彼女は涙をぬぐうこともなく自嘲気味な笑みを浮かべた。


「最初は没落貴族だって構わないと思っていたわ。年上の夫が他界したら私は美しき未亡人として、もっと身分の高い殿方の後妻にでも収まろうと計画していたから。だってろくに使用人もいないから、食事作りも私の担当でしょう? それなら夫の寿命など私のたなごころのうちだもの」


 秘密の計画を打ち明けるように、ビアンカさんは蠱惑的な忍び笑いをもらした。


 リオはきょとんとしていたが、私は意味が分かってゾッとした。夫の食事に毒を盛るつもりだったってこと!? ビアンカめ、聞いていた話と違ってとんでもない悪女だぞ!


「夫が死んで自由になるまで何年も劇場へ足も運べず、かわいい彼に歌を教わることもできなくたって、私は大丈夫だと思っていたのよ。でもある日、ぽっきりと心が折れてしまったの」


 ビアンカは自分の恋心を否定してしまった。目的のためなら手段をえらばない恐ろしい女だが、それでも彼への愛は本物だったのだろう。その愛を消そうとしたとき、したたかな悪女とはいえまだ十代の少女である彼女の心は壊れてしまったのだ。


「私、豊かで華やかで美しい暮らしに憧れたから、貴族になりたかったのよね。メイドのような生活をすると思ったら、生きていく意味が分からなくなってしまったの」


 なんだか同情の余地がない。アンナおばさんやエンツォ以上に、悪魔に好まれそうな人物だもん。釈然としない私の方へ顔を向けて、ビアンカはほほ笑んだ。


「あなたたち、美しい音楽を聴かせてくれてありがとう。私、死んでしまいたいと思っていたけれど、果たして天国では音楽を聴けるのかしら?」


 頬に血色が戻った彼女は、歌うように言葉をつむいだ。


「聴けたとして、私の心を奪う両性具有者アンドロギュノスの歌声を聴ける保証はないわ。でも生きていれば、どんなにつらい人生でもまた音楽を聴くことができるかも知れないと気づいたの」


「そんな、生きていればだなんて」


 リオが苦しそうにつぶやき、決意を秘めたまなざしでジャルディーニ氏を見た。


「せっかくビアンカさんが元気になったのです。縁談を断って下さらないのですか?」


 元気になったビアンカが嫁いだら、命が危ないのは没落貴族の方である。


「実はな」


 ジャルディーニ氏は苦虫をかみつぶしたような顔で白状した。


「ビアンカが病にふせったことで、体の弱い女はいらないと断りの手紙が届いたのだ。まだ返事は書けておらんのだが」


 妻というより使用人が欲しかっただけだから、寝込むようなお嬢様に用はないのだろう。


「その貴族も腐ってんな」


 私がぼそりと本音を漏らすと、ビアンカがオペラ歌手のような甲高い笑い声を上げた。


「オホホホ。面白い坊や、その通りよ。彼らの性根もお腐りになっておりますの」


 彼女の笑い声に少しだけ苦笑しながらも、リオは優しい笑みを浮かべた。


「そんなところにお嫁に行かなくて済んで、本当によかった」


「うむ。大切なビアンカはずっとわしのそばに置いておこう」


 ジャルディーニ氏が極端な発言をすると、ビアンカの眉間に不満の色が浮かんだ。父親は気付かず、


「娘を救ってくれた学生諸君に何か礼をしたい。まさかこんな素晴らしい効果があるとは予想もしていなかったから、何も用意しておらんのだが」


 どっかりと椅子に腰かけたまま太い指で顎を撫でていたが、まだその場に残っていた執事らしき男性に尋ねた。


「昨日焼いたクッキーはまだ残っていたかな?」


「はい、すぐにご用意できます」


 使用人が返事をすると、満足そうに私たちを見回した。


「君たち、甘いものは好きかね?」


 私たち三人はそろって大きくうなずいた。


「うむ、食堂に案内させよう」


 ジャルディーニ氏が立ち上がり、使用人が私たちを先導して歩き出した。


「君たちの寄宿舎には門限があるのだったかな? だが心配はいらない。我が家の馬車で送るからな」


 ジャルディーニ氏はまた訊かれてもいないことをしゃべり出したが、演奏会前までとは打って変わって機嫌がよさそうで、とげとげしい雰囲気は消えていた。


「なぁに、歩いても十五分程度だ。馬車ならすぐだよ」


「ありがとうございます」


 エンツォが礼を述べるも、それには答えず、今度はビアンカを振り返った。


「お前がいつ目覚めても良いように、しょっちゅう甘いものを作らせていたんだ。一緒に食べるだろう?」


「もちろんですわ。お父様は甘いものが大好きですものね」


 可愛げないビアンカの返事にもジャルディーニ氏は豪快な笑い声を上げ、大きな腹を揺らしながら早足で階段を降りてゆく。先頭を歩いていた執事さんは私たちの歩調を気遣ってか、ゆっくりと進んでくれるのに。


 リオの隣を歩いていた私は、階段に差し掛かろうというところで急に後ろから腕を引かれた。


「え、ビアンカさん?」


 驚いて振り返ると、彼女は人差し指を唇に当て、静かにするよう指示した。


 リオもエンツォも私たちがついて行かないことには気付かず、執事を追って階段を降りてゆく。


 ビアンカは骸骨のように細い指で私の二の腕を引っ張り、階段の向かいに置かれた彫像の陰に連れて行った。


「あの――」


 不安になってわけを尋ねようとした私の目を、彼女はのぞきこんだ。


「あなた、女の子でしょう?」




─ * ─




バ、バレた!?

なぜ見抜かれてしまったのか?

オリヴィアはどうごまかすのか? いや、ごまかせるのか?

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