88、リオ、窮地を救って大活躍

 声を出せないまま音楽だけが進んでいく――


 絶望に目の前が暗くなりかけたとき、隣からリオの手が伸びてきて冷え切った私の指を力強く握った。驚いてリオを見た私を安心させるように、やわらかくほほ笑みかけてくれる。戸惑う私にひとつうなずくと、なんとアルトパートを歌い出した。


illosその tuos misericordes oculos憐み深いまなざしを


 音楽が変わってしまった衝撃とリオへの感謝に震えながら私は、ようやく声を出せた。二人で声を揃えてアルトパートを歌う。


ad nos converte我らに向けて下さい


 だが気付けばリオは鮮やかにパート間を泳ぎ切り、するりとソプラノパートに戻っていた。自然で見事なリオの歌声に私は圧倒された。ふわふわと気楽な顔を見せていたリオが、いつの間にかこれほどの技術を身に着けていたなんて。


 第四部分に前奏は存在せず、無伴奏でソプラノが歌い出す。


「Et Jesum, benedictum fructumあなたの尊き御子イエスを ventris tui」


 リオはあっさりと、チェンバロのせいで走っていた曲の速度を元に戻した。リハーサルのときと変わらず落ち着いた彼の声がしっとりと、その場にいる全員の心を優しく撫でる。


リオは依然として私の指をしっかりと握ったまま。彼の手のひらから伝わってくる熱が私を勇気づけてくれる。


nobis私たちへ


 歌いながらふと視線を感じて、私は目だけを動かしてチェンバロの向かいを確認した。扉の隙間からネグリジェ姿の少女がすべるように廊下へ姿を現し、私とリオのつないだ手をじっと見つめていた。


post hoc exsilium追放の果てに ostende見せて下さい


 リオとふれあっている喜びを感じながら音楽に希望を託すように歌うと、痩せさらばえた少女がまとっていた闇が霧散していく。こけた頬に血の気は差していなくても、彼女の瞳にはおぼろげながら光が宿り始めていた。


 チェンバロが大聖堂のオルガンを思わせるおごそかなフレーズを奏で、天上の世界に導かれるように最後の曲が始まった。 


O clemensおお、心優しく


 今の私が出せるもっとも甘やかな音色で歌い出すと、


O pia慈悲深い


 リオが天使の翼で包み込むように心地良いソプラノで答える。


O dulcis甘美なる


 私たちはどちらからともなく向き合い、うっとりとまなざしを絡ませた。リオの榛色はしばみいろの瞳に燭台の炎が映り込み、静かな情熱を灯してゆらめいている。


virgo Maria乙女マリア


 くちづけを交わすように、二人の唇が同じ動きで最後の音を歌う。実際にふれあっているのは指先だけなのに、声だけでなく魂まで重ねているみたい。満たされて、第三曲で大敗を喫した数分前が遠い過去に思える。


 チェンバロの低音弦が最後の振動を止めた直後、破裂するように大きな拍手が鳴り響いて私は思わず振り返った。視線の先に立っていたのは、白い絹のネグリジェに身を包んだ少女だった。棒切れのような手首からは想像できない大音量で手をたたいている。


「なんて素敵なの!」


 興奮した声は華やかなソプラノで、私は再び驚いた。


 使用人の皆が遅れて私たちに拍手を送る中、ジャルディーニ氏だけはこちらを見もせず机に両手をついて立ち上がった。


「ビアンカ、起き上がれるようになったのかい?」


「ええ、お父様。長い間、悪夢を見ていたようですわ」


 使用人の一人が近くの部屋から椅子を運んできたが、彼女は座らなかった。曲の途中で部屋から出てきたときの、壁にすがって立っていた幽鬼のような姿とはまるで別人だ。ネグリジェの裾と布靴の間からのぞく足首には骨が浮き出ているが、痩せ細ってはいても爛々らんらんと輝く瞳で周囲を睥睨へいげいする彼女は、焼け野原から立ち上がる未来の英雄に見えた。


「ビアンカ、元気になって良かった。悪夢を見せていたのはわしなのだ」


 ジャルディーニ氏は使用人の用意した椅子にくずおれた。


 私は楽譜を片付けるのも忘れて目をみはった。彼は悪魔を心に入れてしまうような弱さがないから、私たちの歌を聴いても変化しないと思っていたのだ。


 だが身近な人が悪魔に魅入られて、一切影響を受けずに過ごせる者はいないのだろう。ルイジおじさんも寡黙で疲れ切った顔をしていたが、アンナおばさんが元に戻ってから別人のように表情がやわらかくなったのを思い出す。


「いいえ」


 ビアンカさんは尊大な口調で否定した。


「お父様は天国にいらっしゃるお母様の夢を叶えようとしていたのでしょう?」


 ビアンカさんのソプラノヴォイスが鼓膜に響く。ジャルディーニ氏はハンカチで目元を抑えた。


「ああ、最初は妻の願いを叶えているはずだった。愛する人はいつも、わしの商才ならきっと貴族位も買えると楽しみにしていてくれたから」


「ええ。お母様が亡くなったとき誓い合ったじゃないですか。貴族に成り上がりましょうって」


 なんだかビアンカさん、思っていたのと違う! 薄幸の美少女じゃなかったの?


「だがそれはお前を不幸にしてまで手に入れるものではなかった。我が愛する人の忘れ形見であるお前が幸せであることこそ、妻の本当の願いだろう。わしはあの幼い歌手たちの子供らしい歌声を聴いて、お前が純粋な少女だった頃を思い出したのだ」


 なんということだろう! 私はプロ歌手のつもりで実力以上の歌を聴かせようと必死で背伸びしていたのに、ジャルディーニ氏の評価は「幼い歌手たちの子供らしい歌声」だったのだ!


 目の前の情景から色が失われていく。愕然として立ち尽くす私の耳に、リオの明るい声が聴こえた。


「よかったね、オリヴィエーロ! 僕たちの歌声がジャルディーニさんの心を動かしたんだ」


 楽譜を持った手が伸びてきて私を引き寄せ、力強く抱きしめた。リオは全く悔しがっていない。だが目標が低いなどと言って責めることはできない。エンツォと私のミスをカバーし、演奏会を成功に導いたのは間違いなく彼なのだ。


「リオ、ありがとう」 


 抱きしめられて彼のうなじに頬を寄せたまま、私は心から礼を言った。嬉しそうなリオは愛らしい笑い声をあげてから、私の耳に唇を近づけるとささやいた。


「今日も素敵だったよ。僕の自慢のオリヴィア」


 え、失敗しちゃったのに!?


 訊き返そうとした私の口は、だが半ばで閉ざされた。目を細めてこちらを見つめるビアンカさんに気がついたからだ。その口元は笑っているというより、ほくそ笑んでいた。



─ * ─



ビアンカさんの真意は?

次回『ビアンカの本性と見抜かれた秘密』

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