87、演奏中のハプニング

「お願いです。ビアンカさんが回復しても、年取った貴族となんか結婚させないで」


「君たちのような子供に何が分かる?」


 ジャルディーニ氏は鷲のように鋭い目で私をにらんだ。


「口を出すな」


「でもビアンカさんは――」


 なおも言いつのろうとした私の上着の裾を、エンツォがチェンバロの椅子から腰を浮かせて引っ張った。


 そうだ、今日の演奏会はエンツォにとっても大切なチャンス。作曲家として歩み始めようとする彼の未来を、私が握りつぶすわけには行かない。


 三年前の私ならジャルディーニ氏の脂ぎった頬をひっぱたいて、たるんだ腹に隠れた股間を蹴り上げていただろう。だが今そんなことをしたら、私に期待を寄せてくれたドゥランテ先生も、一緒に厳しい指導を乗り越えてきたリオも裏切ることになる。


 私は弱くなったわけじゃない――と思いたい。積み重ねてきたものが、あまりに大切すぎるからだ。


 この忸怩じくじたる思いは音楽に乗せて発散するしかない。エンツォの作曲した『サルヴェ・レジーナ』は、彼自身が味わってきた苦悩の吐露と、その先にある祈りの歌なのだから。


 唇を噛みしめて楽譜をひらいたとき、先ほど私たちを案内してくれた使用人の男性が、召使いたちをぞろぞろと連れて階段を上がってきた。廊下にずらりと並ぶ様子から察するに私たちの演奏を聴くつもりらしい。


 ちらりとジャルディーニ氏を確認すると、彼は何食わぬ顔で手紙に視線を走らせている。仕事さえこなしていれば口うるさいことは言わない主人なのかも知れない。


「それでは始めさせていただきます」


 エンツォが緊張した声で告げると、


「うむ」


 相変わらず手紙に視線を落としたままジャルディーニ氏がうなった。


 私たちは互いに視線を交わし合い、小さくうなずいた。


 エンツォは静かに息を吸い、半音階を交えたハ短調の切ない前奏を弾き始めた。


 私は一瞬まぶたを閉じ、優美なチェンバロの音色に身を委ねる。目を開けた私は曲の世界に入っていた。隣に立つリオの気配を感じながら一緒に息を吸って歌い出す。


Salve幸いあれ


 私たちはこの上なく繊細なピアニッシモで歌い始めた。とけあう二人のハーモニーが、満ちゆく光の海のように広がって、屋敷に充満していた重苦しい空気を追い払う。


Salve regina幸いあれ元后mater misericordiae憐み深き母よ


 ビアンカさんを暗闇から連れ出したいが、私にその力はない。


 マリア様、無力な私たちの声にどうか耳を傾けて下さい。希望を絶たれ、苦しんでいる少女をお救い下さい。


vita我らが命であり, dulcedo慰めであり, et spes nostra希望でもある方


 ビアンカさんにもう一度、生きる希望を授けてあげて。彼女の心を癒し、歩むべき道筋を照らして下さい。


 どうすれば解決できるか分からない問題を聖母様にすがって、愛に生きる少女の未来に祝福あれと、ひたすら祈りを込めて歌った。


Salve幸いあれ


 最後の一音まで神経の行き届いた、研ぎ澄まされた音色で私とリオは締めくくる。


 視界の端でエンツォの長い指が優しく鍵盤を撫で、第二部分の前奏が軽やかに流れ出す。


Ad te clamamusあなたへと泣き叫ぶ


 私はフレーズ感を大切に歌い出した。すぐにリオが同じテキストを歌って追いかけてくる。


exules, filii Hevae我らは追放されしイヴの子


 ソプラノとアルトが三度音程で重なり合うその後ろでは、チェンバロが前奏の旋律を変奏しながら歌い上げる。異なる二つの音楽が見事に調和する巧みな技法を交えつつ曲が展開してゆく。


Ad teあなたの前で


 私の言葉に呼応するように、


suspiramus溜め息をつき


 リオが続きを歌う。一音ずつ途切れ途切れに、まさに悲しみの溜め息をつくようだ。


 エンツォの書いた楽譜は、suspiramus溜め息をつきというひとつの単語を休符で区切った不思議なものだった。私とリオは最初、エンツォが音符に対する単語の割り当てを間違えたのかと思ったが、溜め息をつく様子を音楽で巧みに演出したものだったのだ。


gementes et flentes嘆いて涙を流す


 リオの高く澄んだ歌声が翼を得て天使のごとく飛翔する。私は地上から彼を見上げ、嘆きの半音階で正確に支えた。


 心をえぐる不協和音を交えながら難所をくぐり抜けると、リオのソプラノはひらりひらりと花弁が舞い落ちるように下降の旋律を歌って地上へ戻ってくる。


in hacこの lacrimarum valle涙の谷で


 涙の谷というテキストにふさわしい、胸を締めつける切ない旋律はエンツォの真骨頂だ。


 曲が終わると見せかけて、フレーズは偽終止に着地する。


 瞬間、すべての音が消えた。唐突に訪れた静寂に一際ひときわ高く響くのは、リオの細く高い歌声のみ。凍り付いた時間に彼が命を吹き込み、音楽は再び動き出す。


lacrimarum valle涙の谷で


 ドゥランテ先生に何度も特訓されたピアニッシモでしめやかに、私たちは物悲しいハ短調の幕を閉じた。


 一呼吸おいてエンツォが第三部分の前奏を弾き始めたとき、かすかに扉の開く音がした。


 視界の端でチェンバロ前方の扉がゆっくりと動き、闇があふれ出すのが見えた。漆黒がにごったと思ったら白いネグリジェだった。風も吹いていないのに裾をたなびかせ、人影が扉の隙間にゆらりと立つ。


 気配を感じたエンツォがふと顔を上げた。


 ビクッと肩を震わせた彼の演奏が途端に乱れた。


 一小節とばした!? いや、一段まちがえて弾いてる!? あの小心者めーっ!


 私は心の中で毒づくと同時に、頭を殴られたように眩暈めまいを覚えた。今、何小節目だ? どこまで行った? 入るところが分からない。白状すると私は、前奏の小節数を頼りに歌いだしを判断していたのだ。


 緊張で息が浅くなっていく。混乱した私の視線はせわしなく譜面の上を走るが、見慣れたはずの楽譜なのに記号の羅列としてしか認識できない。


Eia ergo,我らの願いを advocata nostra主に取りなして下さる方


 ふわりとリオが歌い出した。彼は小節を指折り数えるようなことはしていないのだろう。感覚で入れるのだ。


 リオが歌い出したことで私はようやく楽譜の現在位置を確認できた。だが歌い始めようにも三度上を歌うソプラノにつられそうで、怖くて入れない。


 冷や汗が背筋を伝い、シャツがべっとりと体に張り付く。エンツォが音をくれるかと期待して視線を送るも、私が入れないことに彼も焦っているらしく、どんどん伴奏の速度が上がっていくだけ。私の鼓動も曲と共に加速していく。


illosその tuos misericordes oculos憐み深いまなざしを


 リオのソプラノだけがむなしく響く。声を出せないまま音楽は進んでいく――




─ * ─




オリヴィア、ピンチ!

エンツォも頼りにならないし、どうやって挽回する!?

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