86、悪魔に魅入られたのは誰?

「旦那様は応接間でお待ちです」


 初老の使用人に案内されて、私たち三人はジャルディーニ邸の廊下を歩いていた。壁布クロスに織り込まれた金糸が、等間隔に並ぶ壁掛け燭台に反射して時折りキラリとまたたく。


 だが煌々こうこうと照らすロウソクも天井の隅にわだかまる闇を完全に払拭することはできず、重い空気が両肩にのしかかってくる。息が詰まるようなこの雰囲気はおそらく、悪魔に目をつけられている人がいるのだろう。ジャルディーニ氏自身か、それとも娘のビアンカさんか――


 いずれにしても、私とリオが歌えば解放してあげられるかもしれない。


「こちらです」


 使用人のおじさんが重厚な扉を開けると、応接間は絵画で埋め尽くされていた。


 天井の真ん中で輝くシャンデリアの下にテーブルセットが置かれ、座り心地のよさそうなソファに太った中年男性が座っていた。もこもこの羊みたいなかつらをかぶった男は読んでいた手紙から顔を上げ、


「待っていたよ、小さな音楽家たち。いや、待ちくたびれたと言った方が正確かな」


 早口でまくし立てた。素早く立ち上がると手紙をポケットに突っ込みながら大股で近づいてくる。豪華な屋敷に住んでいても、身振りから貴族でないことは明らかだ。


「娘が病にふせっているのだ。聞いているかな?」


 私がうなずくが早いか、


「音楽院に依頼した数ヵ月前は日が暮れてからなら起き上がれたから、すぐ近くの礼拝堂を借りて娘のために特別な典礼を執り行ってもらうつもりだったんだ」


 せっかちに言葉を重ねた。腰掛けるようソファを勧められないばかりか、自己紹介すらない。だが彼がジャルディーニ氏で間違いなさそうだ。


 私たちは知らなかったが、最初は屋敷内ではなく小さな礼拝堂での典礼を予定していたから、神聖な歌詞を新たに作成するのではなく伝統的な聖歌のテキストが選ばれたのだろう。


「だが今や娘は部屋から出ることすら拒むようになってしまった。だから娘の部屋の前で歌って欲しいんだ。チェンバロを移動して調律も済ませてあるが、一応確認してくれ」


 私たちを振り返ることもなく告げると、ずんずんと廊下を歩いていく。幼児が一人隠れているんじゃないかと疑いたくなるような腹を突き出して階段をのぼる彼を、私とリオは小走りで追いかけた。


 エンツォだけは長い脚を優雅に動かして貴公子然と歩いている。彼とて出自は貧しいはずだ。裕福な親なら高い声のために息子の完全性を損なうはずはないのだから。でも幼いうちから音楽院で知識を積み、貴族階級に呼ばれて演奏を重ねるうちに、教養と礼儀作法を身に着けたのだろう。


「さあ、ここだ」


 ジャルディーニ氏が両手を広げた先には金色のチェンバロと譜面台、それから小さな机と椅子が並べてあった。最後尾を歩いているものとばかり思っていた使用人の男性は、いつの間にか姿を消している。


「美しい楽器だろう? 驚いたかい?」


 ジャルディーニ氏は惚れ惚れと、脚まで金色に塗られたチェンバロを見つめた。側面には植物を模した複雑な文様が描かれ、響板の内側にのぞく絵の中では、神話が題材なのか裸の男女が語り合ったり寝そべったりしている。


「私が自ら楽器職人と画家を手配して作らせたのさ」


 趣味が良いかと訊かれたらはなはだ疑問だが、見る者を圧倒する効果は充分にある。


 私とリオが返答に困っている間にエンツォは年上らしくうなずいて、


「綺麗ですね。では触らせていただきます」


 調律をするため楽器に近づいた。私とリオも、


「じゃあ」


 などとジャルディーニ氏に声をかけ、鞄から楽譜を取り出す。活力にあふれたこの男が悪魔の影響下にあるとは思えない。するとやはり、息苦しい空気はビアンカさんが悪魔に魅入られているせいなのか――などと考えていたら、


「そこに置いた書斎机はね」


 ジャルディーニ氏が机と椅子を指さした。


「私が使うんだ。書かなければならない手紙がいくつかあるんだが、私は音楽を聴きながら作業したほうがはかどるんだよ。しんとしている場所だと集中できなくてね」


 尋ねてもいないことを話してくれるが、彼の仕事の進め方になど興味はない。


「あの――」


 私は恐る恐る尋ねた。


「ビアンカさんの部屋はこちらですか?」


 すぐ近くの扉を振り返る。廊下にはドアがいくつも並んでいるのだ。


「いいや、そこはビアンカ付きのメイドが寝泊まりしている部屋だ。娘の部屋はそっち」


 ジャルディーニ氏は顎でぞんざいに、チェンバロの斜め向かいにある扉を示した。その様子にムッとしたリオが、苛立ちを抑えるように深呼吸してから口を開いた。


「ビアンカさんがもし元気になったら、その――」


 一瞬口ごもってから、リオはしっかりとした口調で尋ねた。


「貴族のおうちに嫁がされてしまうんですか?」


 チェンバロの調律を確認していたエンツォが、ぎょっとして顔を上げたのと、 


「君には関係のないことだ」


 ジャルディーニ氏が不機嫌な声を出したのは同時だった。


 私は譜面台に置いた楽譜をめくろうと指を伸ばしたまま固まっていた。今まで重要なことに気が付かなかった自分に愕然として。


 自分たちの本番を成功させることばかり考えていた私は、歌の力でビアンカさんを元気にしたら、彼女が不幸な結婚をいられてしまうことに思い至らなかったのだ。


 愚かな私に比べてリオは、なんてしっかりしているんだろう。リオは優しいだけの男の子じゃないんだ。


 私は自分の靴のつま先を見つめていた。好きになった人がたまたま子供を作れないというだけで、引き離されるなんて理不尽だ。三年前、リオと離れ離れになるかも知れなかったときの絶望が、まざまざとよみがえってきた。


 ビアンカさんには愛する人がいる。彼はリオと同じ、非人道的な手術を受けた歌手――


 私はたまらなくなって、椅子に座って手紙を読み始めたジャルディーニ氏へ訴えていた。


「お願いです。ビアンカさんが回復しても、年取った貴族となんか結婚させないで」



─ * ─



懇願するオリヴィアにジャルディーニ氏は答えてくれるのか?

次回『演奏中のハプニング』

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