85、ジャルディーニ氏の屋敷に潜む黒い影

「二人とも、ごめん!」


「なんでエンツォが謝るの?」


 驚いて尋ねる私の横で、リオも目を丸くしている。


「だってまさか、あそこまで高いレベルを求めてくるとは思わなかったんだ。僕があらかじめ、君たちにもっとこまかく稽古をつけておくべきだった」


「いやいやエンツォ先生のご指導は充分すぎるほどでしたから」


 私は慌てて手を振った。


「だって僕は、ドゥランテ先生が本職の歌手たちにどんな指導をするか見てきて、知っていたのに」


 エンツォは伴奏者として、時には写譜係として、またはヴァイオリンやフルートの対旋律の作曲を任されて、ドゥランテ先生が歌手たちと仕事をする現場に何度も同行してきたそうだ。


「プロの現場では、ドゥランテ先生はまさに今日みたいな感じで厳しい指導をなさるんだ」


 エンツォの言葉にリオが目を輝かせた。


「そうか、僕たちはプロとして歌うんだ!」


 純粋無垢なリオを横目に見ながら私は内心、そりゃまるっきり進まなくて当然だわと、第一声を繰り返し続けたレッスンを思い出していた。


「まあ、有難いことではあるよね」


 私がつい冷めた声で相槌を打つと、エンツォはさらに現実的な答えを返した。


「でも君たちは職業歌手として正当な報酬を支払われるわけではないけれどね。得難えがたい経験を積めるのは確かだけど、プロは対価を受け取るから求められる水準も高いんだ」


 なるほど、職業音楽家に近いエンツォならではの視点だ。無報酬でも外部で歌えることで有頂天になっている私やリオとは全く意識が違う。彼にとって音楽は、心の拠り所であると同時に仕事なのだ。


「だから僕は二人に申し訳なくて」


 エンツォはか細いため息を漏らした。


 その後、ドゥランテ先生は三日とあけずに私たちの指導に当たってくれた。一日目こそ目を回した厳しさにも段々と慣れてきて、劇的ではない音楽を魅力的に演奏する極意が少しずつ見えてきた。


 同時に、先輩学生ではなく百戦錬磨の熟達した音楽家に指導を受ける意義も分かってくる。ドゥランテ先生はポルポラ先生と同世代の作曲家だ。世俗曲の分野で活躍するポルポラ先生に対し、ドゥランテ先生は宗教音楽家として名を馳せているという違いはあるが、ナポリの音楽界を率いる実力者の一人である。音楽院在学中の若い音楽家ではなく、音楽院教授が示してくれる深い知見に、私とリオも触れ始めていた。


 そして半月ほど経ったある日、ついにドゥランテ先生から本番の日取りが伝えられた。


「今朝ジャルディーニ氏の使いの者が手紙を持ってきた。来週末、歌いに来て欲しいそうだ」


 思わずごくりと唾を飲み込んだ私の隣で、


「来週末!?」


 リオが高い声で訊き返した。


「僕たちの歌、そんなに早く仕上がるんですか?」


 私たちはいまだ毎回、ドゥランテ先生から細部にわたり指導を受け続けていた。


 だが先生は顔色ひとつ変えずに、


「君たちの演奏はすでに仕上がっているじゃないか」


 と答えた。これには私もリオも耳を疑い、返す言葉を失った。


「オリヴィエーロもリオネッロも、なに鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているんだね?」


 ドゥランテ先生の目じりに珍しく、笑い皺が刻まれた。


「君たちの歌は十代前半の若い歌手が求められる水準を充分に満たしている。ジャルディーニ氏も次世代の音楽家が育っていることを喜ぶだろう」


 これは褒められているのか!? 私とリオが口を半開きにしたまま立ち尽くしているのを見て、エンツォがチェンバロの椅子に座ったまま声をかけてくれた。


「もっと素晴らしくしようと思えばいくらでも追求できるけど、年若い生徒の演奏会としては申し分ないってことだよ」


「その通り」


 ドゥランテ先生はしっかりとうなずいて、


「私も自分の演奏に完全に満足したことなどない。音楽とはそういうものだ。神の領域に手を伸ばそうとするようなもので、計り知れないほど深遠なのだよ」


 おごそかな声で語った。


「先生が自分の演奏に満足しないなんて大変だ!」


 リオが無邪気に驚きの声を上げると、エンツォは何度も首を縦に振った。


「うまくなればなるほど耳が肥えてくるから、自分の演奏が完璧なんて思える日は来ないんだよ」


 エンツォの説明には説得力がある。でもだからこそ、カッファレッリが言うように自分を認めてあげることも必要なのだと私は痛感した。




 演奏会当日午後、私たち三人は音楽院でドゥランテ先生の指導のもと、軽くリハーサルをおこなった。オペラなど演奏時間の長い本番前は喉を休ませるために当日声出しすることはないが、今回私たちが歌う宗教曲はたった二十分だから、通し稽古も負担にならない。


「二人とも、とてもよくなったね」


 ドゥランテ先生がようやく褒めてくれた。私自身、最初の頃と比べれば見違えるように表現力が増したと自負している。先生は私たち三人をかわるがわる眺め、静かだがよく通る声でおっしゃった。


「エンツォの『サルヴェ・レジーナ』は決して激しい曲ではない。だが君たちの歌声は聴く者の心に強く訴えかけるだろう」


「オリヴィエーロ、リオネッロ」


 エンツォがやわらかい笑みをたたえたまま私たちに語りかけた。


「歌えなくなった僕の代わりに、僕の音楽に魂を吹き込んでくれてありがとう」


「エンツォの曲が素晴らしいからだよ」


 咄嗟に口から飛び出した言葉に、私は我ながら驚いていた。だが本当に、『サルヴェ・レジーナ』の穏やかな旋律の中にはエンツォの辿たどってきた人生が込められているのだ。丁寧に歌い込むうち、優しい旋律に隠された悲しみに、心を癒す和声に潜む祈りに、私は気づいて行った。


「思う存分、演奏してきたまえ」


 ドゥランテ先生は私たちを音楽院の玄関ホールまで見送ると、次の授業のため教室へ戻って行った。


 私たちは、ジャルディーニ家お抱え御者が操る馬車に揺られてジャルディーニ邸へ向かった。


 暮れなずむ空の下、一番星に照らされて白く輝く大聖堂ドォーモ前を通り過ぎて細い道に入ると、左右に立派な邸宅が並ぶ街区に入った。ジャルディーニ邸はそのうちのひとつで、個人宅なのに音楽院と同じくらい広い中庭を備えていた。薄闇に抱かれた中庭は、屋敷の窓から漏れるほのかな灯りの中に浮かび上がって見える。


 ランタンを片手に捧げた身なりの良い使用人に案内されて、豪華な屋敷に足を踏み入れた途端、邸内から闇が吹き出してくるのが見えた気がした。


 私とリオは思わず目を合わせ、うなずきあった。飾り立てられた邸宅には、久しく忘れていた悪魔の気配が満ちていたのだ。



─ * ─



次回『悪魔に魅入られたのは誰?』

ジャルディーニ氏自身か、それとも娘のビアンカさんなのか?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る